[事件の概要] |
@甲(原告)は、名称を「水溶性鉛塩類を含有する電着浴」とする発明(以下「本願発明」という。)につき、昭和52年4月6日アメリカ合衆国においてした特許出願に基づく優先権を主張して、昭和53年3月28日特許出願をしましたが、拒絶査定を受けました。 そこで甲は、拒絶査定不服審判を請求し、請求は成り立たない旨の審決をうけたので、本件訴訟を提起しました。 A本件特許出願に係る発明は次の通りです(第1項)。 「陽イオン性可電着性樹脂の水性分散液を含有する電着浴に鉛分が浴全量に基づいて100から3000ppmとなる量の水浴性鉛化合物を添加することを特徴とする改良さとれた電着浴。」 B本件特許出願に係る効果は、従来の電着浴を改良し、陽イオン性で化学的前処理の不必要な水性電着浴であることです。 C審決の理由の要点は次の通りです。 (イ)特開昭51―88530号公報(引用例)には、カチオン性可電着性樹脂の水性分散液に、カチオンの電解電位列の電位が鉄金属表面の電位より高い金属イオン又は過電圧により鉄金属表面に析出しうる金属イオンを加えた被覆浴及びこの浴を使用した塗装方法の発明が記載されている。 (ロ)本願発明と引用発明とを対比すると、その目的、効果の点で従来の電着浴を改良し、陽イオン(カオチンと同義語)性でしかも化学的前処理の不必要な水性電着浴及びその塗装方法であることで全く一致し、その構成で、陽イオン性可電着性樹脂の水性分散液を含有する電着浴に、特定の金属化合物を加える点で一致するが、その特定の金属化合物として、本願発明が水溶性鉛化合物であるのに対し、引用例には、金属化合物の具体例に鉛化合物が記載されていない点で、両者は相違する。 (ハ)引用例では添加する特定の金属化合物として、カチオンの電解電位列の電位が鉄金属表面の電位よりも高いものとしているが、これには鉛化合物も該当することは当業者に周知のことであり、その具体的化合物を明示している引用例3ページ右下欄3〜20行の記載でも、「例えば」と記されているように、例示として書かれており、特に鉛を除くことを意図しているものとは認められない。 D訴訟における特許出願人の主な主張は次の通りです。 (イ)審判引用例の該当部分には「カチオンの電位列中の電位が鉄の電位より高く、かつ本発明の被覆浴に適する適当なイオンは例えば……」と記載されているように、引用例において「適当なイオン」として認識されているものは、単にカチオンの電位列中の電位が鉄の電位より高いのみでは足りず、その中にさらに適当なイオンの存在することを明記しているのである。 (ロ)そして、例示されたイオンの中には、本願発明の鉛イオンは存在しない。従って、該当箇所の記載から引用例に鉛イオンが「適当な」イオンとして含まれているとする根拠はない。 (ハ)引用例において例示された適当なイオンのなかには銀、カドミウム、アンチモンのごとき、特殊な金属が例示されている一方で、例示金属の中では銅や錫と共に最も一般的な金属の1つである鉛は省かれている。 (ニ)従って引用例においては、鉛は「カチオンの電位列中の電位が鉄の電位より高い」金属には該当するが、「適当なイオン」からは省かれており、引用発明はむしろ鉛を除外しているものである。 |
[裁判所の判断] |
@裁判所は、特許出願に係る発明及び引用発明について次の如く判断しました。 (イ)本願発明は陽イオン性可電着性樹脂の水性分散液を含有する電着浴に鉛分(水溶性鉛化合物)を所定濃度となるように添加することを構成要件とするものである。 (ロ)当事者間に争いのない審決の理由の要点2、3及び成立に争いのない甲第5号証によれば、引用例にはカチオン(陽イオンと同義)性可電着性樹脂の水性分散液を含有する電着浴に特定の金属化合物を添加することが記載されているが、右特定の金属化合物中に鉛化合物そのものが具体的に記載されていないことが認められる。 (ハ)引用例にはその電着浴に添加する金属化合物として鉛化合物も示唆されているということができるか否かについて以下検討する。 A裁判所は引用文献中の特許出願に係る発明への示唆に関して次の如く判断しました。 (イ)引用例には、「カチオンの電位列中の金属イオンの電位は公知である。この電位列は公知のように電極電位が上または下にある電極の電位よりどの程度に貴または卑であるかを示す。過電圧の印加によって電位が鉄よりも卑である金属イオンを鉄に析出させることもできる。この列は亜鉛イオンである。カチオンの電位列中の電位が鉄の電位より高く、かつ本発明の被覆浴に適する適当なイオンはたとえば銅、銀、コバルト、カドミウム、ニツケル、スズ、アンチモンのイオンである。」(3頁右下欄1〜16行)との記載のあることが認められる。 (ロ)引用例には引用発明の目的に適する金属イオン(金属化合物)として、まず電位列中の電位が鉄の電位よりも高いものであることを挙げ(もつとも、鉄の電位より低い電位のものでも過電圧の印加により鉄にその金属イオンを析出することができることも示しているが)、「たとえば‥」との記載に続いて具体的には7種の金属イオンを挙げている。そして成立に争いのない甲第6号証(審決のいう「参考文献」)によれば、右の7種の金属イオンはいずれも電位列中の電位が鉄の電位よりも高いものであることが認められる。 (ハ)そして本願発明の目的、効果と引用発明の目的、効果とは、共に従来の電着浴を改良し、陽イオン性でしかも化学的前処理の不必要な水性電着浴及びその塗装方法である点で全く同一であることは当事者間に争いがなく、また、鉛は、電位列の電位が鉄の電位よりも高いものであり、かつ、このことは当業者に周知の事項であつたことも当事者間に争いがない。 (ニ)電着浴に添加して用いる金属イオン(金属化合物)として鉛イオン(鉛化合物)が前記発明の目的を実現する上で支障をきたすなど不適当であるとの特段の事情がない限り、引用例の前記記載を見れば、これに掲記された前記7種の金属イオンの例にならい、鉄の電位よりも高い点で右7種の金属イオンと同様である鉛イオンを電着浴に添加して使用しようと考えることは、当業者であれば容易に着想できること、換言すれば引用例には鉛イオンについても示唆されているものと認めるのが相当である。 B裁判所は、示唆が成立しない「特段の事情」の有無について検討する。 (イ)原告は、まず引用発明においては水溶性鉛化合物は好ましくないものとして認識されていた旨主張する。 (ロ)しかし、引用例を仔細に検討しても引用発明において鉛化合物を使用した場合には、発明の目的、効果達成の上で支障をきたすことを窺わせる記載は全く見当らない。 (ハ)原告は引用例には「本発明の被覆浴に適する適当なイオン」と記載されているところ、鉛は銅や銀と共に最も一般的な金属であるのに、この鉛の記載がないことは右の「適当なイオン」から除外されている趣旨である旨主張する。 (ニ)引用例の前認定の記載中「本発明の被覆浴に適する適当なイオン」とは、引用発明の目的を達成しその効果を奏するのに適するイオンの意味に解すべきであるところ、引用発明の目的、効果が従来の電着浴を改良し、陽イオン性でしかも化学的前処理の不必要な水性電着浴及びその塗装方法である点で本願発明のそれと同一であることは前述のとおりである。 (ホ)そして、引用例には前記のとおり鉛化合物を使用した場合に発明の目的、効果達成の上で支障をきたすことを窺わせる記載がなく、また、この発明に適するイオンを具体的に記載するに当たり「たとえば」と表示した上で7種の金属イオンを掲記しているのであるから、この7種の金属イオンはあくまでも例示的記載であってこれを限定的列挙とみることはできない。 (ヘ)そうすると、引用例に鉛イオンが掲記されていないことをもつて、引用発明は鉛化合物が不適当な金属化合物として除外されていると解することはできない。 |
[コメント] |
@本件は、進歩性審査基準において、引用文献中の示唆が、引用発明から本件特許出願の請求項に係る発明に到ることの動機付けとなった事例として挙げられています。 A示唆の内容は、“電位が鉄より高い”ということですが、示唆以外の要因にも目を配る必要があります。引用文献には金属イオンの具体例が挙げられており、しかも電着浴に利用できる金属イオンは有限であるので、手当り次第に試行錯誤しても本件特許出願に係る発明の構成に到達することの難易度は高くないと考えられます。それに加えて、鉄よりも電位が高いという示唆があるのですから、本件発明に到ることは容易という判断は順当なものと言えます。 B米国特許出願の進歩性の実務では、“Obvious to Try”(試みることが自明)な条件を“公知かつ有限(known and finite)”としており、本件特許出願の判決も同様な考え方に基づいていると思われます。 |
[特記事項] |
進歩性審査基準で引用された事例 |
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