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●平成8年(ワ)1597号「サーマルヘッド」


包袋禁反言(特許出願の経過の参酌)/分割出願/サーマルヘッド

 [事件の概要]
@甲(原告)は、サーマルヘッドの発明について昭和62年7月31に特許出願aをし、平成3年7月10日に早期審査の事情説明書を提出するとともに、平成3年10月30日に請求項1を減縮する手続補正書を行い、当該出願は平成4年4月26日に出願公告となりました(特公平4−17795号)。また甲は、平成3年11月6日に減縮前の請求項1の発明を内容とする分割出願bを行い、平成7年3月22日に出願公告となりました(特公平7−25178号)。

A乙は、サーマルヘッドの製造・販売を行い、これに対して甲は、分割出願bについて付与された特許権(本件特許)の侵害として、製造・販売行為の差止請求及び損害賠償を求め、本件訴訟に至りました。

本件特許の請求項1の内容は次の通りです。

(イ)ヘッド基板の上面に、発熱抵抗体と、該発熱抵抗体に対するコモンリードとを、略平行に延びるように形成したサーマルヘッドにおいて、

(ロ)前記コモンリードを、下層の金による配線パターンと、上層の金と同程度かあるいはそれより小さいシート抵抗の金属による配線パターンとの二層構造にし、

(ハ)上層の配線パターンにおける幅方向の一部を、前記ヘッド基板の上面のうち下層の配線パターンが形成されていない領域に形成した

(ニ)ことを特徴とするサーマルヘッド。

 本件特許
図面
5b…金による配線パターン(コモンリードの下層)
7b…銀による配線パターン(コモンリードの上層)

B甲の本件特許の目的は、「材料コスト、製造コストを低減し、しかも電圧降下による問題を解消したサーマルヘッドを提供すること」です(段落0004)。
甲の本件特許の作用・効果は次の通りです(段落0011)。

(イ)コモンリードとして、上層の低抵抗金属による配線パターンの一部を、下層の金による配線パターンの形成されていない領域に形成したことによって、金以外の低抵抗領域が形成され、コモンリード全体の抵抗値を低下させることができる。これにより上層の配線パターンの膜厚を薄くすることができ、印刷・焼き付け回数の低減及び材料コストの低減を図ることができる。

(ロ)更に、上層の配線パターンは一部が基板表面に直接接触するため、ペーストに含まれるガラス成分と基板表面との結合が強固となり、密着力が向上する。このため、用紙との接触による配線パターンの剥がれを防止することができる。

C甲の原出願の出願当初の特許請求の範囲の内容は次の通りです。

 「基板上でコモンリードと個別リードとの間に発熱抵抗体を形成したサーマルヘッドにおいて、コモンリードの一部を二層構造にし、下層を金による配線パターン、上層を低抵抗金属による配線パターンで構成するとともに、上層の配線パターンの一部を下層の配線パターンの形成されていない領域に形成したことを特徴とするサーマルヘッド。」

D甲は、原出願の早期審査の事情説明書において特許請求の範囲を次のように減縮する予定であると述べました(後にその通りに補正)。

 「ヘッド基板の上面に、発熱抵抗体と、該発熱抵抗体に対するコモンリードとを、略平行に延びるように形成したサーマルヘッドにおいて、前記発熱抵抗体と略平行に延びるコモンリードを、下層の金による配線パターンと、上層の銀による配線パターンとの二層構造にし、上層の配線パターンにおける幅方向の一部を、前記ヘッド基板の上面のうち前記下層の配線パターンが形成されていない領域にずらせて形成し、このずらせた非重なり部分における横幅寸法を、前記下層の配線パターンに対する重なり部分における横幅寸法よりも大きくしたことを特徴とするサーマルヘッド。」

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E甲は、早期審査の事情説明書において、従来技術の問題点として次の(イ)を、上記減縮発明の作用として次の(ロ)を、またその効果として次の(ハ)を主張しました。

(イ)「サーマルヘッドにおいて、その発熱抵抗体の長手方向に沿って延びるコモンリードを、その長手方向に沿っての抵抗値を下げる目的で、下層の金による配線パターンと、上層の銀による配線パターンとの二層構造に構成する場合、下層の金による配線パターンに上層の銀による配線パターンを単に重ねただけの構成であると、その長手方向に沿っての抵抗値が金と銀との相互拡散等によりさほど低下しないと言う現象が発生するために、長手方向に沿っての抵抗値を低くするには、前記上層の銀による配線パターンにおける厚さを相当厚くしなければならず、従って、印刷・焼き付けの回数を増やさねばならないからコストが大幅にアップする」

(ロ)「下層の金による配線パターンに対して上層の銀による配線パターンを、その全長にわたって電気的に接続でき、この状態で、前記上層の銀による配線パターンのうち広幅の非重なり部分が、導電性の良い状態、つまり、長手方向に沿っての抵抗値が低い状態でコモンリードの一部を構成することになるから、前記上層の銀による配線パターンの厚さを厚くすることなく、コモンリード全体における長手方向に沿っての抵抗値を大幅に低減できる。」

(ハ)「a上層の銀による配線パターンにおける厚さを厚くすることなく、コモンリード全体における長手方向に沿っての抵抗値ママを大幅に低減できることができ、これにより、上層の銀による配線パターンを形成することに要する印刷・焼き付け回数の低減及び材料コストの低減を確実に図ることができるから、発熱抵抗体の全長にわたって印字濃度差の少ないサーマルヘッドを、安価に提供できる。 b上層の銀による配線パターンは、その幅方向の一部がヘツド基板の表面に直接接触するため、この銀ペーストに含まれるガラス成分と基板表面との結合が強固となり、密着力が向上する。このため、用紙との接触による配線パターンの剥がれを防止できて、耐久性を向上することができる。」

Fさらに甲は、原出願の出願公告後に提出した異議答弁書において次のように述べました。

(イ)「本願発明のように、非重なり部分の横幅寸法を重なり部分の横幅寸法より大きくした場合には、前記した『a』の作用・効果(「上層の銀による配線パターン(9)における厚さを厚くすることなく、コモンリード(3)全体における長手方向に沿っての抵抗値を大幅に低減できることができ、これにより、上層の銀による配線パターン(9)を形成することに要する印刷・焼き付け回数の低減及び材料コストの低減を確実に図ることができるから、発熱抵抗体(2)の全長にわたって印字濃度差の少ないサーマルヘッドを、安価に提供できる」こと。裁判所注記)を奏する」。

(ロ)「この作用・効果は、非重なり部分の横幅寸法と重なり部分の横幅寸法とをほぼ等しくした甲第一号証(特開昭六一−二六〇六〇三号。)のものに比べて、格別顕著である」。

G乙の裁判における主張は次の通りです。

(イ)原告は、分割後の原出願の発明の出願経過において、「コモンリードの一部を二層構造に」するについて、下層を金による配線パターン、上層を銀による配線パターンと選択した限りにおいては、金と銀との相互拡散等の現象が生じることから、分割後の原出願の発明の特許請求の範囲のとおり限定した技術的構成によって初めて技術的課題を解決し、公知技術から脱却できると宣明し、また、審査官も、これを容れて、右構成によりはじめて所期の作用効果を奏し得るものとして、分割後の原出願の発明を特許すべきものとした以上、包袋禁反言の原則により、「コモンリードの一部を二層構造に」するについて、下層を金による配線パターン、上層を銀による配線パターンと選択したものに関し、侵害訴訟において、今さら右限定を不要のものと扱うことは許されない。

 換言すれば、「コモンリードの一部を二層構造に」するについて、下層を金による配線パターン、上層を銀による配線パターンと選択したものに関しては、もっぱら分割後の原出願の発明の技術的範囲に属するもので、本件特許発明の対象外というべきである。

(ロ)また、仮に、本件特許発明の技術的範囲に、「コモンリードの一部を二層構造に」するについて、下層を金による配線パターン、上層を銀による配線パターンとしたものも含まれるとしても、分割後の原出願の審査手続において、分割後の原出願の発明の特許請求の範囲によって規定された構成要件をすべて充足しなければ公知技術の範疇から脱却しない旨原告が主張し、これが容れられて分割後の原出願に特許権が付与されたことは前記のとおりであるから、包袋禁反言の原則により、また、原出願にかかる特許権との整合的解釈の必要及び新規な創作部分に独占権を付与するという特許法の根本理念から、分割後の原出願の発明の構成を充足しない技術については、本件特許発明の技術的範囲に属しない。

(ハ)被告物件は、いずれも、分割後の原出願の発明の構成である「非重なり部分における横幅寸法を、前記下層の配線パターンに対する重なり部分における横幅寸法よりも大きく」することを充足しないから、本件特許発明の技術的範囲に属しない。

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H甲の、乙の主張に対する反論は次の通りです。

 「ある出願について特許庁が拒絶理由を通知してきたときに、出願人が当該拒絶理由を克服するために補正等をしたことによって特許査定がされた場合に、包袋禁反言の原則により出願経過が参酌されることはあり得るが、本件特許発明の技術的範囲を解釈するについて、別個の出願である原出願にかかる発明の出願経過を参酌する理由は全くない。本件特許発明の技術的範囲は、あくまでも本件特許権の明細書と特許請求の範囲の記載に従って決定すべきである。」


 [裁判所の判断]
@裁判所は、分割出願に付与された特許において原出願の経過に包袋禁反言の法理を適用することに関して次の見解を示しました。

(イ)分割出願に係る発明と分割後の原出願の発明は、別個独立のものであるから、右と同様に、分割出願に係る発明の技術的範囲を確定するのに原出願の発明の出願経過を参酌するのは原則として相当でない(原出願の発明の出願経過において述べられたことは、分割出願に係る発明に関して述べられたものとはいえない。)。

(ハ)ただ、分割出願に係る特許権の成立が原出願と密接な関係にある場合において、分割出願の際に既にもととなった原出願の願書に添付された明細書又は図面の意味内容が原出願の出願経過の参酌により明らかになるような例外的な場合(この場合は、分割前の原出願の明細書の意味内容が確定されることにより、右明細書に記載されている分割出願に係る発明の意味内容も分割出願の時に明らかになっていると評価することができる。)に限り、原出願に係る発明の出願経過を参酌することができるというべきである。

A裁判所は、上記見解に基づいて本件に対する包袋禁反言の適用に関して次のように判断しました。

(イ)本件特許発明と分割後の原出願の発明は別個独立に審査手続を経ているので、両者に密接な関係があるとは必ずしもいえない。

(ロ)特許庁審査官が特許異議の申立に理由がない旨の決定をしたのは、分割出願の後である平成七年六月三〇日であるから、分割出願の際に既にもととなった原出願の願書に添付された明細書又は図面の意味内容が原出願の出願経過の参酌により明らかになるという関係にはない。そうすると、本件特許発明の技術的範囲の確定について分割後の原出願の発明の出願経過を参酌するのは相当でないというべきである。

Bさらに裁判所は甲の陳述は分割出願に係る発明を限定する趣旨ではないと認定しました。

(イ)そもそも包袋禁反言の原則は、前記のとおり、出願人が当該発明が公知技術と抵触すると判断されることを避ける目的で当該発明の技術的範囲の解釈について限定的な陳述をした場合に適用されるものであるところ、原告の分割後の原出願の発明の出願経過における陳述は、特に分割後の原出願の発明の技術的範囲の解釈について限定的な陳述をするものではない。

(ロ)例えば前記三菱電機株式会社に対する異議答弁書についてみると、「コモンリードにおける上層の銀による配線パターンにおける幅方向の一部を、コモンリードにおける下層の金による配線パターンが形成されていない領域にずらして形成し、このずらせた非重なり部分における横幅寸法を、前記下層の配線パターンに対する重なり部分における横幅寸法よりも大きくした」構成を採ったことによる顕著な作用効果を強調しているにすぎない。

(ハ)被告は、原出願にかかる発明の当初の明細書に記載された特許請求の範囲と本件特許発明の特許請求の範囲が類似することから、原出願にかかる発明の当初の明細書に記載された発明を限定する関係にある分割後の原出願の発明及びこれについての出願経過の陳述は本件特許発明をも限定する旨主張するのかもしれないが、本件特許発明と分割後の原出願の発明が別個のものであることからすれば、そのように解すべき根拠に乏しい。


 [コメント]
@米国特許出願の実務では、包袋禁反言の法理について、「複数の特許が同一の基礎出願から派生している場合、成立したいかなる特許のクレーム構成要素に関する審査経過も、同じクレーム構成要素を含むその後に成立された特許に対しても、同様の効力が生じる。」という判断が示されています(Elkay事件 192 F.3d 973)。

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Aこれに対して、日本での包袋禁反言の法理の適用範囲はより限定的です。本訴訟では、原出願の審査と分割出願の審査とは原則として別であり、両出願が密接な関係にある場合(原出願の明細書・図面の意味内容がその出願経過の審査の参酌により明らかになる例外的な場合)のみ、禁反言の法理が適用されるとしています。

B本件では、最初に要件A+Bにより配線抵抗を低減するという効果を奏する発明について特許出願イが行われ、その後に早期審査の事情説明書の提出及び補正書(請求項に要件C+Dを追加するもの)の提出が順次行われ、次に分割出願がなされました。

A:コモンリードを上下2層とするという基本的構成を有するサーマルヘッド。

B:上層の配線パターンにおける幅方向の一部を、コモンリードにおける下層(金)の配線パターンが形成されていない領域にずらす。

C:上層の配線パターンを銀とする。

D:このずらせた非重なり部分における横幅寸法を、前記下層の配線パターンに対する重なり部分における横幅寸法よりも大きくする。

図面2

C要件Cに関する侵害訴訟の被告の主張は、“配線パターンのうち下層を金、上層を銀とするものは専ら分割後の原出願の技術的範囲に属するのであり、分割出願に係る特許発明の技術的範囲には含まれない。”ということであり、これは、ダブルパテント排除の原則を前提といると推定されます。

 しかしながら、“特許出願人の意思表示を審査官等が信じてその意思表示を信じて権利を付与したときに、その意思表示と矛盾した権利解釈を主張することは許されない。”という包袋禁反言の考え方からすると、本件の場合には、分割出願の請求項の要件のうち「上層の金と同程度か或はそれより小さいシート抵抗の金属」に関して、“当該金属は銀を含まない。”と特許出願人が陳述した訳ではなく、その種の陳述を審査官が信じて分割出願に対して現在の権利範囲を認めたという事実も見当たりません。従って分割出願との間に密接な関係”があるとは認めがたいと考えます。

D要件Dに関しては、異議申立の答弁書で要件Dによる効果を主張したのは、分割出願をした後ですので、分割出願に関して審査官の判断に影響を与えたという証拠はないと考えられます。


 [特記事項]
 
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