[事件の概要] |
@甲(控訴人)は、“遊離カルシウムイオン濃度測定法及び抗凝血性綿撒糸”を名称とする発明について米国特許出願をし、パリ条約優先権を主張して我国への特許出願Aをして特許権(第2977339号)を取得しました。 A乙は、採血器を製造、使用し、甲はそれらの行為を自己の特許権の間接侵害、直接侵害として提訴し、第一審で甲の請求が棄却されたため、これに控訴したのが本件訴訟です。 B甲の特許権の権利範囲は次の通りです。 注射器で採取した血液の遊離カルシウムイオン濃度を、ヘパリンの使用による誤差を減少させて測定する方法において、 所定量のヘパリン塩を用意し; 所定量の水溶性充填剤を用意し; 該ヘパリン塩と該充填剤とを合し; 該混合工程の後この混合したヘパリン塩および充填剤を凍結乾燥して複数の綿撒糸を製造し; 該綿撒糸の一つ又は複数を注射器に入れるが、この際該一つ又は複数の綿撒糸は約15U.S.P単位より低いヘパリン塩活性を有し; 該注射器中に血液試料をとり; 該注射器から該血液試料の少なくとも一部を、血液試料分を分析する試験装置中へ送入し、かつ該ヘパリン塩の使用による上記測定における誤差の減少下に該血液試料分と関連する遊離カルシウムイオン濃度を測定することを特徴とする注射器で採取した血液の遊離カルシウムイオン濃度を、ヘパリンの使用による誤差を減少させて測定する方法。 C乙の行為は、“混合工程の後この混合したヘパリン塩および充填剤を凍結乾燥して複数の綿撒糸を製造し;該綿撒糸の一つ又は複数を注射器に入れる”という“順序”を満たしていないので、文言侵害は成立せず、均等論の適否が問題となっています。 D甲は、本件特許出願Aの審査において、拒絶理由通知書に対して意見書・補正書を提出し、その意見書において次のように述べており、綿撒糸の製造と注射器内への挿入との順序に言及する件が包袋禁反言の主張を招きました。 (イ)「新請求項1は、本願発明がヘパリン塩の存在による誤差を回避しつつ、血液試料の遊離カルシウムイオン濃度を測定することを包含しています。この本願請求項1に記載した測定法は、従来血液試料を採取するときに注射器中に使用した量に比較して、少量のヘパリン塩を必要とするにすぎません。比較的僅少量のヘパリン塩を注射器中に使用することは、その小さい寸法のために多くの製造上及び取り扱い上の問題を有します(本願明細書【0017】【0018】)。本願測定法は、充填剤を減少量のヘパリンと共に包含して成形される1つ以上の綿撒糸を必要とします。更に、この綿撒糸は凍結乾燥法を用いて製造されます。すなわち、本願におけるヘパリンの減少量及び充填剤を含有する綿撒糸は注射器自体の中で混合されないということです。綿撒糸を製造した後、これら綿撒糸の1つ又は複数を注射器内に挿入します。・・・本願発明におけるこれらの多くの工程の組合わせは公知技術に見出すことはできません。」、 (ロ)「(引用例1には)更に、ヘパリン塩及び充填剤の組合わせ綿撒糸を最初に凍結工程により製造し、次いで血液試料を採取(する)ために注射器中に挿入し、配置することを示唆する教示も全くありません。」 (ハ)「(引用例2に関し)この公報中にも、凍結乾燥工程により綿撒糸を製造し、かつ次いで注射器中に綿撒糸を挿入配置し、・・・は記載されていません。」 (ニ)「本願発明以前に、綿撒糸を凍結乾燥法により製造し、かつ充填剤を含有することにより、その製造上及び取り扱い上の問題を解決して、更に綿撒糸中に存在するヘパリン量を減少させるという著しい特徴部に関する記載は全くありません。特に、注射器中に綿撒糸を配置する前に凍結乾燥工程を用いて、必要とされる低量のヘパリン及び充填剤を組み合わせることに関して従来技術にはどんな示唆も見いだすことができません。」 E包袋禁反言の原則に対する甲の反論は次の通りは次の通りです。 「一般に、手続補正を伴わない事項についての意見書の記載は、公知技術に基づく拒絶理由に対するものであっても、必ずしも当然に意識的除外の意思を示すものとはいえない。本件では、問題とされた「順序」は手続補正によって加えられた限定ではなく、特許出願当初から特許請求の範囲に記載されていたものである。意見書における控訴人の主張は、本件発明と引用例との全ての相違に言及して、本件発明と引用例との相違を主張しようとするものであった。全ての相違に言及すれば、必然的に、「順序」も本件発明を構成する内容として主張されることになるが、相違として述べられたことの全てが本件発明の特徴の強調であるとは必ずしもいえないし、また、意識的除外であるともいえない。」 F甲の反論に対する乙の再反論は次の通りです。 “特許出願過程における特許出願人の主張が侵害訴訟における技術的範囲の解釈について参考とされるのは、特許出願に係る発明を公知技術と区別するために補正を行った場合や、手続補正を伴わない場合の意見書の主張において権利取得の意思の放棄が客観的に明確な場合に限られるわけではない。本件においては、特許出願人は拒絶理由通知に対する意見書において、本件発明について意図したところを主張しており、そのように主張して特許されたのであるから、権利行使の場面においてこれと異なる主張をすることは許されない。” |
[裁判所の判断] |
@裁判所は、本件特許出願Aの経過について次のように認定しました。 特許出願人は、意見書の中で、補正後の特許請求の範囲に記載された発明が引用例記載の発明とは区別され、新規性及び進歩性を有するものであることを説明して、 「綿撒糸を製造した後、これら綿撒糸の1つ又は複数を注射器内に挿入します。・・・本願発明におけるこれらの多くの工程の組合わせは公知技術に見出すことはできません。」、 「(引用例2には)綿撒糸を最初に凍結工程により製造し、次いで血液試料を採取(する)ために注射器中に挿入し、配置することを示唆する教示も全くありません。」(下線付加) 等と主張していたことが認められる。 綿撒糸を製造した後、これを注射器内に入れる旨の説明は、意見書中に繰り返し表れており、説明の趣旨自体は明確であって、不用意な言明とも認められないところ、その内容は、これを客観的にみると、「綿撒糸を製造した後、・・・注射器内に挿入する」という工程の組合わせないし「順序」が公知技術との相違点であるとして、本件発明の新規性及び進歩性を説明しているものであり、上記工程ないし順序が本件発明の特徴的部分であることを言明したものであると理解される。 A裁判所は甲の主張に関して次のように解釈しています。 (イ)特許出願人が特許請求した発明の特徴について、特許出願手続中で提出した意見書等において自ら説明し言明した事項は、通常、特許請求された発明の内容を、特許出願人自身の認識に基づいて、最も端的に表現したものということができるのであるから、均等論の適応が問題となる場面で、当該発明の特徴的部分がどこにあるかを把握するに当たっては、これらの言明を参酌して、特許出願に係る発明の特徴的部分を特許出願人の説明どおりのものとして理解することが、一般に合理的であると考えられる。本件においては、意見書の記載内容自体に照らしても、拒絶理由通知で指摘された公知技術との関係においても、特許出願手続の過程における特許出願人自身の言明に反して、綿撒糸を製造した後注射器内に入れるという「順序」が発明の特徴的部分ではないと理解すべき事情は認められない。 (ロ)そうすると、本件発明において、綿撒糸を製造し、その後に綿撒糸を注射器内に入れるという工程ないし順序は、本件発明 を特徴づける発明の本質的部分であると解するのが相当であり、この工程ないし順序を踏まない被告方法を本件発明 と均等のものということはできない。 B裁判所は、甲の意見に対して次のように述べています。 (イ)甲は、意見書では、引用例と本件発明との相違点のすべてに言及したため、前記「順序」も本件発明 を構成する内容として主張されることになったにすぎず、「綿撒糸を製造した後、注射器内に挿入する」という「順序」を発明の本質的要素として強調したことはないと主張する。しかし、同意見書中の記述が、客観的にみて、「まず綿撒糸を製造すること」ないし上記「順序」が本件発明を特徴づける要素であるという趣旨の主張であると認められるから、甲の主張は採用することができない。 (ロ)また、甲は、意見書と同日付けで提出された手続補正書では、「順序」によって本件発明を限定する補正はしておらず、この同手続補正書による補正の趣旨からみても、意見書中の記述が「順序」によって本件発明 を限定する趣旨のものでなかったことが理解されるし、拒絶理由通知に示された引用例は、拒絶を回避するために順序により本件発明を限定する必要を生じさせるようなものではなかった、などと主張する。しかし、意見書は補正後の本件発明について、その特徴を説明しているものであるから、同時期になされた補正において「順序」による明示の限定がなされなかったという事実があっても、そのことは意見書の内容が「順序」を発明の特徴として述べたものであると認定することを妨げるものではない。特に、補正内容との関連でいうと、上記補正後の明細書の発明の詳細な説明中には、依然として「独立した固体として取り扱うのが容易な強度を有する綿撒糸」の製造に関する事項が記載されており、これらの詳細な説明の記載全体を踏まえて意見書を読み、かつ請求項1の記載と照らし合わせて合理的に理解するときは、意見書中の記述は、原判決認定のとおり、「綿撒糸を製造した後、これら綿撒糸の一つ又は複数を注射器に挿入する」という工程そのものが本件発明 の特徴であることを強調したものということができる。 (ハ)また、引用例との関係において発明を限定する必要がなかったと事後的に評価することができる場合であっても、特許出願人自身が自ら発明の特徴について述べていた事項は、均等論適用の場面で当該発明の特徴的部分を把握するうえで、重視されるべき解釈資料と位置づけられるのであり、本件においては、甲の上記主張を勘案しても、発明の特徴的部分を特許出願人の言明どおりのものとして把握することを不合理とする事情は存在しないというべきである。 |
[コメント] |
@包袋禁反言の原則は、特許出願人が意図的に保護範囲から除外したことが明白な事柄に限定して適用するべきだとする考え方がありますが、それでも本事例の特許権者の主張(意見書の主張と同時に請求の範囲を限定していないから、意図的に保護範囲から除外した事項でない)には無理があると考えます。発明の範囲を限定したのが特許出願の時であろうが意見書提出時であろうが、特許出願人がその限定事項を以て先行技術に対する優位を主張し、それを信じて審査官が特許したということに変わりはないからです。 A本事例の教訓は、“引用例との関係において発明を限定する必要がなかったと事後的に評価することができる場合であっても、意見書でその限定条件を引用文献に対する相違点として主張したときには、禁反言に基づく反論を覚悟しなければならない。”ということです。 Bすなわち、特許出願に係る発明と引用発明との間に幾つも相違点がある場合に、常に全ての相違点に反論するのではなく、相違点による効果の程度等を吟味して論点を絞り、残りの相違点に関しては後日均等論を主張する余地を残す、ということも考える必要があります。 |
[特記事項] |
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