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●昭和62年(行ツ)第3号「トリグリセリドの測定法」事件


進歩性審査基準/特許出願/発明の要旨/リパーゼ判決

 [事件の概要]
@事件の経緯

 甲は、まず、先願として、植物性であるリプゾス・アルヒズス(リプゾス・アリッスと同義。以下「Ra」という)からのリパーゼの鹸化作用を利用したトリグリセリドの測定法に関して特願昭45−130788号(特許出願A)を行い、この発明の欠点(鹸化に時間がかかる)を改良して、「トリグリセリドの測定法」と称する発明について特願昭48−69109号(特許出願B)を行いました。

 甲は、この特許出願Bが進歩性の欠如を理由として拒絶査定され、拒絶査定不服審判の請求も成り立たないとされたため、高裁に審決取消訴訟を提訴しました。高裁は特許出願人甲の主張を認めて審決を取り消し、特許庁がこれに上告し、本件訴訟に至りました。

A本件特許出願(B)の発明の要旨

 「リパーゼを用いる酵素的鹸化及び遊離するグリセリンの測定によってトリグリセリドを測定する場合に、鹸化をカルボキシルエステラーゼ及びアルキル基中の炭素原子数一〇〜一五のアルカリ金属―又はアルカリ土類金属―アルキル硫酸塩の存在で実施することを特徴とするトリグリセリドの測定法。」

(用語の説明)

〔リパーゼ〕中性脂肪を加水分解して脂肪酸とグリセリンとにする酵素です。動物の膵液(すいえき)・胃液・腸液には消化酵素として含まれます。

〔グリセリド〕グリセリン (プロパントリオール) の脂肪酸エステルです。天然に油脂として広く存在しています。脂肪酸基の数に応じて,モノグリセリド (1個) ,ジグリセリド (2個) ,トリグリセリド (3個) の3種類があります。

B本件特許出願Bの明細書には次の記載があります。

(1)「本発明はグリセリドを鹸化し、かつこの際に遊離するグリセリンを測定することによってトリグリセリドを測定するための新規方法及び新規試薬に関する。」

(2)「公知方法によれば、差当りアルコール性アルカリでトリグリセリドを鹸化し、次いで生じるグリセリンを測定することによりこの測定を行っている。」

(3)「この公知方法の重大な欠点は、エタノール性アルカリを用いる鹸化にある。この鹸化工程は、さもなければ個有の精密かつ容易に実施すべき方法を煩雑にする。それというのは、この鹸化はそれだけで約七〇度Cの温度で二〇〜三〇分を必要とするからである。引続き、グリセリン測定そのものを開始する以前に、中和しかつ遠心分離しなければならない。」

(4)「この欠点は、一公知方法で、トリグリセリドの酵素的鹸化により除去され、この際、リゾプス・アリッス(Rhizopus arrhizus)からのリパーゼを使用した。この方法で、水性緩衝液中で、トリグリセリドを許容しうる時間内に完全に脂肪酸及びグリセリンに分解することのできるリパーゼを発見することができたことは意想外のことであった。他のリパーゼ殊に公知のパンクレアスーリパーゼは不適当であることが判明した。」

(5)「しかしながら、この酵素的分解の欠点は、鹸化になおかなり長い時間がかかり、更に、著るしい量の非常に高価な酵素を必要とすることにある。使用可能な反応時間を得るためには、一試験当り酵素約一mgが必要である。更に、反応時間は三〇分を越え、従って殊に屡々試験される場合の機械的な実験室試験にとっては適性が低い。最後に、遊離した脂肪酸はカルシウムイオン及びマグネシウムイオンと不溶性石鹸を形成し、これが再び混濁させ、遠心しない場合にはこれにより測定結果の誤差を生ぜしめる。」

(6)「従って、本発明の目的は、これらの欠点を除き、酵素的鹸化によるトリグリセリドの測定法を得ることにあり、この方法では、必要量のリパーゼ量並びに必要な時間消費は著しく減少させられ、更に、沈でんする石けんを分離する必要性も除かれる。」

(7)「この目的は、本発明により、リパーゼを用いる酵素的鹸化及び遊離したグリセリンの測定によるトリグリセリドの測定法により解決され、この際鹸化は、カルボキシルエステラーゼ及びアルキル基中の炭素原子数一〇〜一五のアルカリ金属―又はアルカリ土類金属―アルキル硫酸塩の存在で行なう。」

(8)「リパーゼとしては、リゾプス・アリッスからのリパーゼが有利である。」

(9)「本発明の方法を実施するための本発明の試薬はグリセリンの検出用の系及び付加的にリパーゼ、カルボキシルエステラーゼ、アルキル基中の炭素原子数一〇〜一五のアルカリ金属―又はアルカリ土類金属―アルキル硫酸塩及び場合により血清アルプミンからなる。」

(10)「有利な試薬組成物の範囲で、特に好適な試薬は次のものよりなる: リゾプス・アリッスからのリパーゼ0.1〜10.0mg/ml」 

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C先願である特許出願Aの内容
「溶液、殊に体液中のリポ蛋白質に結合して存在するトリグリセリド及び/又は蛋白質不含の中性脂肪を全酵素的かつ定量的に検出するに当り、リポ蛋白質及び蛋白質不含の中性脂肪をリゾプス・アルヒズスから得られるリパーゼを用いて分解し、かつ分解生成物として得られるグリセリンを自体公知の方法で酵素的に測定することを特徴とする、トリグリセリドの定量的検出法」

D本件特許出願Bの先行技術

(a)第1引用例(東京化学同人発行「臨床化学分析V」)の開示

“大部分がトリグリセリドからなる中性脂肪をエタノール性水酸化カリウムにより鹸化してグリセリンを遊離させ、それを定量することにより中性脂肪を測定すること”

(b)第2引用例(朝倉書店発行「酵素ハンドブック」)の開示

 “リパーゼがトリグリセリドを加水分解すること”

“この酵素はエステルとの境界面に作用し、境界面の増加によって一層多くの酵素が水層から放出されること”

“カルボキシルエステラーゼもトリグリセリドを加水分解すること”

(c)第3引用例(同書店発行同人編「酵素研究法」)の開示

 “カルボキシルエステラーゼは脂肪(トリグリセリド)を分解し得るもので、リパーゼと画然と区別し得るものでないこと”

 “分解作用の測定に当たっては脂肪酵素の基質の多くは水に不溶性であるために乳化が必要であって、エマルジョンの状態とし測定を行い、その際オレイン酸ソーダなどを安定剤として使用すること”

(d)第4引用例(前記「酵素研究法」)の開示

 “高級脂肪酸のグリセリンエステル、すなわち脂肪や油脂のエステル分解に働くリパーゼと低級脂肪酸と脂肪族低級アルコールとのエステルの分解に働く非特異性エステラーゼとは画然と区別できるものではなく、非特異的エステラーゼもある程度脂肪を分解し、また、リパーゼも低級脂肪酸エステルを分解し得、化学的にも細部にわたって両者を区別できるものではなく、本質的な差異はないこと”

(e)第5引用例(Bulletin de la societe de Chemie Biologipue四八巻)の開示

 “リパーゼとしてリゾプス・アルヒズスからのリパーゼがあること”

 “これを使用する際その活性化のためにラウリル硫酸塩を使用すること”

(f)第6引用例(共立出版株式会社発行「化学大辞典」)の開示

 “アルキル硫酸塩は陰イオン表面活性剤の一種であり、浸透剤などに使用されること”

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E第一審での特許出願人甲の主張

(a)甲は、本件特許出願の請求の範囲中の「リパーゼ」の意義に関して次のように説明しました。

(イ)本願発明の特許請求の範囲の記載によれば、「リパーゼ」について何らの限定も付されていないが、本願明細書の発明の詳細な説明の項の全記載を総合的、合理的に検討する限り、「リパーゼ」とはRaリパーゼの意に限定して解釈するのが相当である。

(ロ)本願発明はリゾプス・アリツスからのリパーゼを使用するこの基本発明をそのまま承継するとともに、これにカルボキシルエステラーゼ及びアルキル基中の炭素原子数一〇〜一五のアルカリ金属―又はアルカリ土類金属―アルキル硫酸塩を併用することにより、基本発明の有する欠点即ち、トリグリセリドの測定に要する時間を著しく短くし、同時に高価な酵素であるRaリパーゼの使用量を著しく減少させることによって製作コストの軽減に成功したものである。

(ハ)この事実は本願明細書の全記載特に二頁一行ないし五頁一〇行までの記載及び実施例の全部がRaリパーゼを限定使用していることからたやすく理解できるところである。

(ニ)四頁一四行、一七行及び五頁六行にはそれぞれ「リパーゼ」なる語が見えているが、これらの語は、本願発明がRaリパーゼを用いて脂肪分を分解することを発明の要旨とする前記基本発明を改良したものであるとの記載を受けた上で用いられている用語である点で、「Raリパーゼ」を指すことは疑問の余地がないところである。

 蓋し、もしこの語が「Raリパーゼ」以外のリパーゼをも含む広い概念のものであるとすれば、かかるリパーゼを用いることは、本願発明の前記目的に背馳することになり不合理だからである。

(b)甲は、引用例に関して次のように主張しました。

(イ)第2引用例の「常用名Lipase」(四〇三頁二行)には「動物組織(特に膵臓)、植物種子(特にヒマシ)、酵母、糸状菌などにある」と記載があるにすぎず(同頁一四行)、
第3引用例記載のリパーゼはすべて動物性リパーゼであり、いずれにもRaリパーゼに関する記載はない。

また、第4引用例には単にリパーゼと記載されているだけで、これにRaリパーゼが含まれるか否かは明らかでない。

また、第5引用例にはRaリパーゼについての記載はあるが、その内容は同リパーゼの酵素としての作用についての研究を課題とした論文であって、トリグリセリドの全酵素的、定量的測定方法に係る論文ではない。また、その実験例においてはRaリパーゼが各基質をモノグリセリドまで分解することが記載されているにすぎない。

(ロ)このようにリパーゼに関する第二ないし第五引用例にはRaリパーゼを用いてトリグリセリドを鹸化しグリセリンまで遊離することに関する記載は全くない。

F本件特許出願Bに対する第一審の判断

 「(前述の)(4)記載の方法はRaリパーゼによるトリグリセリドの酵素的鹸化により遊離するグリセリンを測定するトリグリセリドの測定方法であるところ、これと基本発明の構成とが実質的に同一であることは前叙のとおり当事者間に争いがない。しかして、前記のとおり、本願明細書の発明の詳細な説明の項による限り、本願発明は(4)記載の測定方法の改良を目的とするものであるから、本願発明はRaリパーゼを使用することを前提とするものということができる。」


 [裁判所の判断]
@最高裁判所は、新規性や進歩性の判断における特許出願の“発明の要旨”に関して次の判断基準を示しました。

(イ)特許法二九条一項及び二項所定の特許要件、すなわち、特許出願に係る発明の新規性及び進歩性について審理するに当っては、この発明を同条一項各号所定の発明と対比する前提として、特許出願に係る発明の要旨が認定されなければならない。

(ロ)この要旨認定は、特段の事情のない限り、願書に添付した明細書の特許請求の範囲の記載に基づいてされるべきである。特許請求の範囲の記載の技術的意義が一義的に明確に理解することができないとか、あるいは、一見してその記載が誤記であることが明細書の発明の詳細な説明の記載に照らして明らかであるなどの特段の事情がある場合に限って、明細書の発明の詳細な説明の記載を参酌することが許されるにすぎない。

(ハ)このことは、特許請求の範囲には、特許を受けようとする発明の構成に欠くことができない事項のみに記載しなければならない旨定めている特許法三六条五項二号の規定(本件特許出願については、昭和五〇年法律第四六号による改正前の特許法三六条五項の規定)からみて明らかである。

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A 裁判所は、上記判断基準を本件特許出願に次のようにあてはめました。

(イ)原審が確定した前記事実関係によれば、本願発明の特許請求の範囲の記載には、トリグリセリドを酵素的に鹸化する際に使用するリパーゼについてこれを限定する旨の記載はなく、右のような特段の事情も認められないから、本願発明の特許請求の範囲に記載のリパーゼがRaリパーゼに限定されるものであると解することはできない。

(ロ)原審は、本願発明は前記(4)記載の測定方法の改良を目的とするものであるが、その改良として技術的に裏付けられているのは、Raリパーゼを使用するものだけであり、本願明細書に記載された実施例もRaリパーゼを使用したものだけが示されていると認定している。

(ハ)しかしながら本願発明の測定法の技術分野において、Raリパーゼ以外のリパーゼはおよそ用いられるものでないことが当業者の一般的な技術常識になっているとはいえないから、明細書の発明の詳細な説明で技術的に裏付けられているのがRaリパーゼを使用するものだけであるとか、実施例がRaリパーゼを使用するものだけであることのみから、特許請求の範囲に記載されたリパーゼをRaリパーゼと限定して解することはできないというべきである。


 [コメント]
@本件判決(いわゆるリパーゼ判決)は、特許出願の発明の要旨の原則として、特段の事情がない限り発明の詳細な説明の参酌することが許される(それ以外の場合には特許請求の範囲の記載の通りに定めなければならない)ことを定めたものです。

A本原則は“発明の要旨”という用語が条文上からなくなった今日でも適用され、新規性進歩性審査基準にも引用されています。

Bもっとも発明の詳細な説明を参酌することとは、請求の範囲に記載された“リパーゼ”を“Raリパーゼ”と限定解釈すること(もともと請求の範囲にない条件が書いてあるように解釈すること)をいうのであり、請求の範囲に記載された発明特定事項を理解するために発明の詳細な説明を参考とすることが禁止されているわけではありません。

Cこのように特許請求の範囲の恣意的な限定を認めないという判例はこれまでにも存在していましたが(例えば昭和41年(行ケ)第62号)、最高裁判所によりそれが判例として確立されました。

D本件において、下級裁判所は、本件特許出願Bが同一人がした先の特許出願Aの発明(Raリパーゼの利用を前提とするものであるもの)の改良であり、先願発明は鹸化に時間がかかるという課題を解決するために本件特許出願の発明がなされた、という特許出願人の主張を認めました。

E“発明の奨励”という観点を最大限に求めた結果でしょうが、それにより特許出願を許可した場合には、Raリパーゼ以外のリパーゼを利用した発明の態様が特許発明の技術的範囲(文言侵害の範囲)と主張される可能性があります。

F特許出願が特許庁に係属している間に請求の範囲のリパーゼをRaリパーゼに補正する機会はあった筈なので、そうした特許出願人の主張を認める必要はないと考えられます。


 [特記事項]
新規性・進歩性審査基準に引用された事例
 
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