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●平成30年(行ケ)第10122号(I)(審決取消訴訟・棄却→取消)


新規事項/特許出願/水中音響測位システム

 [事件の概要]
(a)本件は、特許第5769119号の特許権に対して進歩性欠如・サポート要件の欠如・新規事項追加禁止違反を理由とする無効審判の審決(請求棄却)に対する審決取消訴訟です。

 裁判所は、進歩性・サポート要件に関しては取消理由なしとし、他方、新規事項の追加禁止に関して取消理由ありとして、審決を取り消しました。

 以下、このレポートでは進歩性に関する事柄を報告します。新規事項の追加に関しては下記を参照して下さい。

(b)被告は、平成25年9月24日、発明の名称を「水中音響測位システム」とする特許出願(特願2013−196594号)をしました。

 被告は、平成27年1月19日付けで本件特許出願の明細書及び特許請求の範囲について補正し、さらに同年4月6日付けで明細書及び特許請求の範囲について補正しました。以下、平成27年4月6日付けの補正を「本件補正」といい、本件補正に係る手続補正書と共に提出した同日付の意見書を「本件意見書」という。

 被告は、平成27年7月3日、特許第5769119号の特許権の設定の登録(。請求項の数は2。)を受けました。以下、この特許を「本件特許」といい、本件特許に係る明細書及び図面を「本件明細書」といいます。

(c)原告は、平成29年9月29日、本件特許の請求項1及び2に係る発明につき無効審判を請求しましたが(無効2017−800130号)、特許庁が平成30年7月17日、「本件審判の請求は、成り立たない。」との審決をしたため、平成30年8月27日、その審決の取消しを求めて、本件訴訟を提起しました。


[特許発明の内容]

{発明の概要}

 裁判所は、本発明の目的・構成・効果に関して次のように認定しました。

(a)先願システムが解決しようとする課題及びこれを解決するための手段は、本件当初明細書の段落【0004】、【0006】、【0007】及び【0010】の記載によれば、次のとおりと認めることができる。

 “従来の水中音響測位システムにおいては、船上局から海底局の1つに向けて音響信号を送信し、海底局がこれに応答して送信された応答信号が船上局に到達し受信された後に、他の海底局に対して同様の動作を順次行うとの手順を採用していたため、船上局と海底局の間の音響信号の送受信に時間がかかる(どの時点でみても、船上局はいずれか1つの海底局との間でしか音響信号の送受信を行わないため、全体の測距時間は、最低でも各海底局に対する測距時間を合計した時間となる。)との課題があった。そこで、先願システムは、当該課題を解決するための手段として、船上局からの音響信号を各海底局に一斉に送信し、各海底局からの音響信号を船上局で一斉に受信する構成を採用した。”

 そして、「一斉に」の語は「そろって。同時に。」との意味を有すること(甲1)に鑑みると、先願システムは、複数の海底局に対して一斉に、すなわち、同時に測距を行うとの構成を採用したことにより、1つの海底局に対する測距時間を他の海底局に対する測距時間としても利用可能となり、従来の水中音響測位システムと比較して全体の測距時間が短縮するという効果を奏するものと認められる。


{特許請求の範囲の内容}

(A)本件特許の請求項1の内容は次の通りです(太字の斜文字は補正箇所)。

 A 陸上におけるGPS観測データを基準としたGPSを備えている船上局から送信した音響信号を海底に設置された複数の海底局でそれぞれ受信し、それぞれの海底局から前記音響信号を前記船上局へ送信することによって、前記海底局の位置データの取得密度を向上して収集することができる水中音響測位システムにおいて、

 B 前記船上局から各海底局に個別に割り当てられるIDコードおよび測距信号からなる音響信号をそれぞれの前記海底局に対して互いに混信しない最低の時間差をもって送信する船上局送信部と、

 C 前記船上局送信部からの音響信号をそれぞれ受信するとともに、受信した前記音響信号中の前記IDコードが自局に割り当てられたものである場合にのみ、前記全ての海底局に予め決められた同じIDコードであって海上保安庁が設置した既存の海底局において用いられるM系列コードを、受信した前記音響信号中の測距信号に付し、前記船上局から送信した前記音響信号が届いた順に直ちに返信信号を送信する海底局送受信部と、

 D 前記それぞれの海底局送受信部から届いた順に直ちに返信された各返信信号を一斉に受信する一つの船上局受信部と、

 E 前記一つの船上局受信部において、前記各返信信号およびGPSからの位置信号を基にして、前記海底局送受信部の位置を決めるための演算を受信次第直ちに行うことができるデータ処理装置と、

 F から少なくとも構成されていることを特徴とする水中音響測位システム。

(B)本件特許の明細書には次の記載があります。

 【0033】図3は本発明の実施例で、船上局からIDコードおよび測距信号を送信し、前記信号の届いた順序に応答した返信信号を船上局で受信した例を説明するための図である。図3において、海底局m1に送信される音響信号は、IDコードS1と測距信号M1からなり、船上局11から海底局12へ送信される。前記IDコードS1は、M系列コード(256bit)で、前記測距信号M1は、M系列コード(512bit)であり、同じ系列で異なるビット数から構成されているため、船上局11で受信したIDコードおよび測距信号が混信することなく、正確なデータを数多く得ることができる。また、本実施例の水中音響測位システムは、音響信号の海中での伝播速度が遅い(海中で、1500m/sec)にもかかわらず、信号の送信から受信までに入る雑音を少なくすることができる。

zu


 【0035】本実施例の水中音響測位システムは、前記GPSを備えている船上局11から海底に設置された複数の海底局12に向かって、前記音響トランスデューサ111から一定の時間差をもって音響信号(IDコードS1、S2、S3、・・・および測距信号M1、M2、M3、・・・)を送信する。その後、前記トランスデューサ111からの前記音響信号を受信した海底局12は、前記音響信号の届いた順に船上局11に向かって応答データを送る。前記海底局12からの音響信号は、前記海底局に付けられた共通のIDコードS6と、それぞれ異なり、前記船上局11から送られて来た測距信号(M1、M2、M3、・・・)とを返信する。前記船上局11は、前記音響信号(S6およびM1、M2、M3、・・・)をそれぞれの位置(距離)により少し違う時間差をもってそれぞれ収集する。


[審決の内容]

(A)審決の概要は次の通りです。

・本件補正は、本件当初明細書等に記載した事項の範囲内においてされたものであるから、特許法17条の2第3項に規定する要件に適合する。

・本件特許は、サポート要件(特許法36条6項1号)に適合する。

・本件発明1及び2は、「文部科学省研究開発局、国立大学法人東北大学『海底地殻変動観測技術の高度化(平成23年度)成果報告』、平成24年5月」(甲2。以下、各証拠に係る文献を証拠番号に従って「甲2文献」などといい、甲3の1文献及び甲3の2文献を併せて「甲3文献」という。)に記載された発明(以下「甲2発明」という。)と甲3文献ないし甲6文献に記載された構成に基づいて、当業者が容易に発明をすることができたものであるとはいえない。


[取消理由/原告の主張]

(A)取消事由1として新規事項の追加の判断の誤りが、取消事由2として、サポート要件適合性の判断の誤り、取消事由3として容易想到性の判断の誤りが挙げられました。裁判所は、取消事由2〜3に関して理由なし、取消事由1に関して理由ありと判断しました。

 以下、このレポートでは取消事由1のみに関して説明します。

 取消事由3に関しては下記を参照して下さい。
平成30年(行ケ)第10122号(II)

(B)取消事由1(新規事項追加の判断の誤り)の内容

(1) 構成Dの「一斉に」についての判断の誤り

 ア 審決は、構成Dの「一斉に」を、一般的な意味である「そろって。同時に。」と解すると技術常識に反することになるから、そのような意味に解することはできないところ、本件当初明細書等の記載に接した当業者は、本件当初明細書等における「一斉に」とは、船上局と各海底局との間の送受信が互いに時間的に区別されることとの対比における「そろって。 同時に。」であり、具体的には「少し違う時間差をもって」を含む広い意味で用いられていることを理解すると認められるとした上で、本件当初明細書等の段落【0035】の記載に基づき、この「一斉に」との文言を追加する本件補正は、本件当初明細書等に記載された事項との関係において、新たな技術的事項を導入しないものと判断した。

 しかし、次のとおり、この判断は誤りである。

 イ 本件当初明細書等は、特許法施行規則24条及び24条の4の各規定、並びにこれらの規定が引用する様式第29及び第29の2に則して作成されているはずであるから、用語の解釈に際しても、これらの規定を踏まえなければならない。そして、様式第29の備考8及び様式第29の2の備考9は、「用語は、その有する普通の意味で使用し、かつ、明細書及び特許請求の範囲全体を通じて統一して使用する。ただし、特定の意味で使用しようとする場合において、その意味を定義して使用するときは、この限りでない。」とそれぞれ規定している。

 そうすると、構成Dの「一斉に」については、これを「その有する普通の意味」である「そろって。同時に。」と解釈することが法的に当然の帰結である。他方、本件当初明細書等には、構成Dの「一斉に」を「特定の意味で使用しようとする」ための定義が一切記載されていないから、「一斉に」を「そろって。同時に。」と異なる意味に解する理由は存在しない。

 ウ また、技術常識をわきまえ、かつ、構成Dの「一斉に」との文言を選択した被告自身も、本件意見書の「B 本願発明の進歩性」の項において、「一斉に」を、「重ねて」や「重複して」、すなわち、「そろって。 同時に。」の意味で用いている。

 なお、被告は、無効審判手続において、構成Dの「一斉に」は「まとめて船上局受信部で受信することを表すものである」と主張していた。

 エ さらに、審決は、本件当初明細書等における「一斉に」、「ほぼ一斉に」、「少し違う時間差をもって」を「表記ゆれ」と捉え、これを「一斉に」が一般的な意味での「そろって。同時に。」とは異なる意味で用いられていることの根拠とした。

 しかし、上記イのとおり、本件当初明細書等は、特許法施行規則の各規定に則して作成されているはずであるところ、特許法施行規則様式第29の備考8の「用語は、…明細書及び特許請求の範囲全体を通じて統一して使用する。」との規定に鑑みれば、例えば、本件当初明細書等の段落【0009】及び【0019】の記載は、「ほぼ一斉に」と「一斉に」の一方又は双方が誤記であることを示すものであって、「表記ゆれ」にすぎず同義であることを示しているのではない。

 オ 以上によれば、構成Dの「一斉に」は「そろって。同時に。」と解すべきである。

 したがって、構成Dの「一斉に」との文言を追加する本件補正は、本件当初明細書等に記載された事項との関係において、新たな技術的事項を導入するものである。

zu

(2) 構成Eの「直ちに」についての判断の誤り

 ア 審決は、構成Eの「受信後直ちに」は、「演算を」「行う」時期を特定する文言であるところ、「直ちに」とは、「時を移さず。すぐに。じきに。即座に。」の意味を有する語であって、特定の時点を厳密に指す語ではないから、技術常識をわきまえた当業者であれば、「受信次第直ちに」とは、船上で演算を行う場合を指すと理解すると認められると判断した。

 しかし、次のとおり、この判断は誤りである。

 イ(ア) 上記(1)イにおいて主張したところと同様に、本件当初明細書等に記載されている用語の解釈に当たっては、特許法施行規則及びこれが引用する様式の規定を踏まえなければならない。

 そうすると、構成Eの「直ちに」については、これを「その有する普通の意味」である「時を移さず。すぐに。じきに。即座に。」と解釈することが法的に当然の帰結である。他方、本件当初明細書等には、「直ちに」を「特定の意味で使用しようとする」ための定義が一切記載されていないから、「直ちに」を「時を移さず。すぐに。じきに。即座に。」と異なる意味に解する理由は存在しない。

 (イ) また、構成Eの「直ちに」の文言を選択した被告自身も、本件意見書の「B 本願発明の進歩性」の項において、「海底局の位置を決めるための相関処理によって、測距信号の相違を解析することが船上局受信部において、受信次第直ちに行うことができます。」、「本願発明は、所定の時間差を設けて、船上局から順次発信した発信信号と、海底局から受信した複数の応答信号を、発信時から時間的に連続したデジタルデータとして記録すると同時に相関処理を行います。」と、「直ちに」を「時を移さず。すぐに。じきに。即座に。」の意味で用いている。

 (ウ) 審決は、本件当初明細書等に、船上で受信したデータを船上で演算を行うことも記載されていることをもって、新たな技術的事項を導入するものではないことの根拠とし、被告も同旨の主張をする。

 しかし、データ処理の演算を船上で行うことが「直ちに」に該当するのであれば、船上局がデータを受信してから1か月後に演算を行っても、10年後に演算を行っても、船上で行っている限り「直ちに」に該当するとの結論となるが、これは「直ちに」との文言が「時を移さず。すぐに。じきに。即座に。」という時間的な意味を有することと相容れない。

 また、実際の水中音響測位では、深さ4000mの海底に設置された海底局の位置をmmの精度で測定するため、船上局が受信したGPS信号を鵜呑みにして即座にその位置を求めることはせず、GPS信号を経時的に観測してGPS衛星が何mmずれているかまで考慮した補正をしている。しかし、このような補正をリアルタイムでできないこともあるため、いずれのシステムでも、演算は船上ではなく陸上で行われている。そうすると、仮に、本件発明が、出願当初から測距精度の問題で現在も実現していない「受信次第直ちに」演算を行うことを可能とするものだったのであれば、そのことが発明の特徴として本件当初明細書等に十分に記載されていたはずである。ところが、本件当初明細書等には「受信次第直ちに」演算を行うための特徴的な構成が記載されていない。

 以上によれば、本件当初明細書等は「受信次第直ちに」演算を行うことを意図して記載されたものではないというべきである。

 ウ さらに、審決は、本件発明における「演算を」「行う」時期は、ある程度の時間的な幅をもって限定されているにすぎないとしつつ、その時間的な幅がどの程度かは「直ちに」という語自体からは明らかでないと判断した。しかし、「直ちに」の時間的な幅がどの程度であるのかが、この語自体から明らかでないのであれば、特許を受けようとする発明が明確でない、すなわち、特許法36条6項2号の規定に違反した特許出願に対して特許を付与したことを自認していることになり、不合理である。

 この点に関連して、審決は、甲2文献に基づく容易想到性の判断に当たり、構成Cの「直ちに」は、「時を移さず。すぐに。じきに。即座に。」の意味を有しており、「1048.576ミリ秒後」が「直ちに」に相当すると、時間的な幅がどの程度であるのかを判断している。

 エ したがって、構成Eの「直ちに」との文言を追加する本件補正は、本件当初明細書等に記載された事項との関係において、新たな技術的事項を導入するものである。

(3)小括 よって、本件補正は本件当初明細書等に記載された事項の範囲内においてしたものであるとの審決の判断は誤りであり、取り消されるべきである。


[被告の主張]

 被告は、取消事由1(新規事項追加の判断の誤り)について次のように反論しました。

(1) 構成Dの「一斉に」について

   ア 構成Dの「一斉に」は、一般的な「そろって。同時に。」の意味ではなく、「少し時間差をもって」を含む広い意味で用いられている。このことは、本件当初明細書等の段落【0006】、【0007】、【0009】、【0010】、【0019】等の記載に加え、段落【0035】に、本件発明では「船上局11は、前記音響信号…を…少し違う時間差をもってそれぞれ収集する。」と記載されていることからも明らかである。

 このように、本件当初明細書等に接した当業者は、本件当初明細書等において、「一斉に」との語が一般的な意味で用いられているのではなく、「少し時間差をもって」を含む広い意味で用いられていることを理解できるから、本件当初明細書等には「一斉に」の語の意味が実質的に定義されているといってよい。

 したがって、段落【0035】に記載されているとおり、「一斉に」を付加する本件補正は、新たな技術的事項を導入するものではない。

   イ なお、被告が本件意見書で「重なって」や「重複して」の語を用いたのは、仮に返信信号の一部が複数の返信信号の受信時間帯において重なった場合であったとしても、重なった状態の複数の返信信号を同時に受信し、識別できることを示すためであって、原告が主張するように「そろって。同時に。」の意味に限定して用いたのではない。

(2) 構成Eの「直ちに」について

   ア 構成Eの「直ちに」は、データ処理装置による演算を船上で行うことを特定するものである。本件当初明細書等の段落【0025】、【0040】等には、データ処理装置による演算を船上で行う場合についての記載があるから、技術常識をわきまえた当業者であれば、構成Eの「受信次第直ちに」が、データ処理装置による演算を船上で行うことを特定するものと理解できる。

 したがって、「直ちに」を付加する本件補正は、新たな技術的事項を導入するものではない。

  イ なお、原告が指摘する本件意見書の記載部分は、演算が船上局受信部で行われることの一部を説明した箇所であって、原告が主張するように、「直ちに」を「時を移さず。すぐに。じきに。即座に。」の意味に限定して用いたのではない。

  (3) 小括

 したがって、本件補正は、本件当初明細書等に記載された事項の範囲内においてしたものであるから、特許法17条の2第3項に規定する要件に適合するとの審決の判断は正当である。


zu
 [裁判所の判断]
(A)裁判所は、請求項1の「一斉に」の補正に関して次のように判断しました。

(a)新規事項の判断に先立ち、次の判断基準が判示されました。

 原告は、構成Dの「一斉に」との文言を追加する本件補正は、本件当初明細書等に記載された事項との関係において、新たな技術的事項を導入しないとした審決の判断が誤りであると主張する。

 ここで、構成Dの「一斉に」は、一つの船上局受信部がそれぞれの海底局送受信部から返信された各返信信号を受信する動作を形容する語であるから、当該文言を追加する本件補正がいわゆる新規事項の追加に当たるか否かは、「それぞれの海底局送受信部から返信された各返信信号を一斉に受信する一つの船上局受信部」との構成(以下「一斉受信構成」という。)が、本件当初明細書等に記載された事項との関係において、新たな技術的事項に当たるか否かにより判断すべきである。

(b)裁判所は、前記判断基準を次のように本件に当てはめました。

 本件特許出願当初の明細書の段落【0004】、【0009】、【0010】及び【0019】に「一斉に」との文言が使用されているところ、これらはいずれも特願2013−102097号に係る水中音響測位システム(以下「先願システム」という。)に関する記載である。そこで、先願システムにおいて用いられている「一斉に」の語の意味について検討する。

  a 先願システムが解決しようとする課題及びこれを解決するための手段は、本件当初明細書の段落【0004】、【0006】、【0007】及び【0010】の記載によれば、次のとおりと認めることができる。すなわち、従来の水中音響測位システムにおいては、船上局から海底局の1つに向けて音響信号を送信し、海底局がこれに応答して送信された応答信号が船上局に到達し受信された後に、他の海底局に対して同様の動作を順次行うとの手順を採用していたため、船上局と海底局の間の音響信号の送受信に時間がかかる(どの時点でみても、船上局はいずれか1つの海底局との間でしか音響信号の送受信を行わないため、全体の測距時間は、最低でも各海底局に対する測距時間を合計した時間となる。)との課題があった。そこで、先願システムは、当該課題を解決するための手段として、船上局からの音響信号を各海底局に一斉に送信し、各海底局からの音響信号を船上局で一斉に受信する構成を採用した。

 そして、「一斉に」の語は「そろって。同時に。」との意味を有すること(甲1)に鑑みると、先願システムは、複数の海底局に対して一斉に、すなわち、同時に測距を行うとの構成を採用したことにより、1つの海底局に対する測距時間を他の海底局に対する測距時間としても利用可能となり、従来の水中音響測位システムと比較して全体の測距時間が短縮するという効果を奏するものと認められる。

  b ところで、本件当初明細書の段落【0004】及び【0010】では、先願システムの動作に関し、船上局における音響信号の送信のみならず、受信についても「一斉に」との語が用いられている。

 確かに、先願システムでは、船上局から各海底局に対する音響信号を厳密な意味で同時に送信することができる。しかし、船上局と各海底局との距離には当然にばらつきがあるため、船上局から各海底局に対する音響信号を厳密に同時に送信したとしても、船上局が各海底局からの音響信号を受信するタイミングには、この距離のばらつきに応じた時間差が生じ得る。そして、このような時間差が生じることを測距前に完全に排除することは不可能である。

 そうすると、先願システムにおける「一斉に」との語は、厳密に同時であることを意味する語としてではなく、船上局と各海底局との位置関係次第では無くなり得るほどの、ある程度の時間差を許容する語として用いられていると認めるのが相当である(このような理解は、全体の測距時間が短縮するとの先願システムが奏する効果(受信のタイミングが厳密に同時でなくとも、複数の海底局に対する測距が同時に行われ得ることは明らかである。)や、本件当初明細書の段落【0019】及び図7の記載とも整合する。)。

  c なお、本件当初明細書の段落【0009】では、船上局からの送信について「一斉に」との表現を用いているのに対し、海底局からの送信及び船上局での受信については「ほぼ一斉に」との表現を用いている。これは、船上局からの音響信号の送信が厳密な意味で同時に行われるのに対し、船上局からの音響信号が海底局に到達し、当該海底局がこれに応答して音響信号を送信するタイミング及び当該海底局からの音響信号が船上局に到達するタイミングには、船上局と各海底局との距離のばらつきに応じた時間差が生じ得ることを明確にする意図であると推察できるから、先願システムにおける「一斉に」の語の意味についての上記理解を否定するものとはいえない。

  d 以上によれば、本件当初明細書は、先願システムにおける「一斉に」の語について、「船上局と各海底局との位置関係次第では船上局での受信が同時にされる程度の時間差の範囲内で」との意味を開示していると認められる。

 (ウ) 本件当初明細書に記載されている本件発明の実施の形態についてみると、本件当初明細書の段落【0036】には、IDコードの長さが0.1秒、測距信号の長さが0.2秒、IDコードと測距信号との間が0.1秒であって、これらの合計0.4秒の長さを持つ音響信号を、測距信号の送信終了から次のIDコードの送信開始まで2.6秒の間隔をあけて送信する実施例が記載されている。この実施例では、最初の音響信号の送信開始から次の音響信号の送信開始までに3秒の時間差が生じる。音速を1500m/秒(本件当初明細書の段落【0026】、【0033】参照)とすると、3秒の時間差は4500mの距離差に相当するから、船上局から海底局までのそれぞれの距離の差が2250mである2つの海底局に対し、遠方の海底局、近接する海底局の順に測距を行うと、2つの海底局からの音響信号が同時に船上局に到着することになる(当該実施例が船上局から5000m離れた海底局を想定している(本件当初明細書の段落【0038】)ことに鑑みれば、2250mの距離の差は当該実施例においても想定されている範囲といえる。)。

 また、本件当初明細書には、当該実施例に関し、海底局からの応答信号が重複しても、すなわち、複数の海底局からの音響信号を船上局で同時に受信しても、相関処理によって識別できることが記載されている(段落【0044】、【0045】)。

 そうすると、当該実施例は、船上局において、複数の海底局からの応答信号を「船上局と各海底局との位置関係次第では船上局での受信が同時にされる程度の時間差の範囲内で」受信する態様を開示していると認められるから、上記(イ)において説示した「一斉に」の語の意味に照らせば、当該実施例が開示する態様は、船上局において、複数の海底局からの応答信号を「一斉に」受信するものといえる。

   ウ 以上によれば、本件当初明細書に記載されている本件発明の実施の形態は、一斉受信構成、すなわち、「それぞれの海底局送受信部から返信された各返信信号を一斉に受信する一つの船上局受信部」を備えていると認められる。

 そして、この一斉受信構成を表現するために、先願システムで使用された「一斉に」との語を、先願システムと同様の意味を有するものとして構成Dに追加することは、本件当初明細書に記載された事項との関係において、新たな技術的事項を何ら導入しないものというべきである。

 したがって、この点についての原告の主張を採用することはできない。

zu

(B)裁判所は、請求項1の「受領後直ちに」の補正に関して次のように判断しました。

(a)新規事項の判断に先立ち、次の判断基準が判示されました。

 ア 原告は、構成Eの「直ちに」との文言を追加する本件補正は、本件当初明細書等に記載された事項との関係において、新たな技術的事項を導入しないとした審決の判断が誤りであると主張する。

 ここで、構成Eの「直ちに」は、「受信次第」との文言と併せて、海底局送受信部の位置を決めるための演算を行う時期を限定するものであるから、当該文言を追加する本件補正がいわゆる新規事項の追加に当たるか否かは、構成Eのうち演算を行う時期について特定する「前記海底局送受信部の位置を決めるための演算を受信次第直ちに行うことができるデータ処理装置」との構成(以下「位置決め演算時期構成」という。)が、本件当初明細書等に記載された事項との関係において、新たな技術的事項に当たるか否かにより判断すべきである。

(b)裁判所は、前記判断基準を次のように本件に当てはめました。

 (ア)本件補正前の特許請求の範囲には「直ちに」との文言は使用されていないし、その余の文言を斟酌しても位置決め演算時期構成と解し得る構成が記載されていると認めることはできない。

 (イ)また、特許出願当初の明細書の段落【0008】、【0009】、【0013】、【0025】、【0030】、【0032】、【0035】、【0036】及び【0040】等には、先願システム及び本件発明の実施の形態において、海底局の位置を決めるための演算(以下「位置決め演算」という。)は、海底局からの音響信号(又はデータ)及びGPSからの位置信号に対して行われるものであって、船上局又は地上において実行される(特に段落【0025】、【0040】)ことが開示されている。しかし、本件当初明細書には、位置決め演算の時期を限定することに関する記載は見当たらない。

 (ウ) この点に関し、審決は、データ処理装置による位置決め演算には、船上で行う場合と、船上で受信したデータを地上に持ち帰って行う場合とがあるところ、後者の場合にはそれなりの時間がかかるから、技術常識をわきまえた当業者であれば、構成Eの「受信次第直ちに」とは、船上で演算を行う場合を指すと理解すると認められると判断した。

 しかし、位置決め演算を船上で行うか地上で行うかは、位置決め演算を実行する場所に関する事柄であって、位置決め演算を実行する時期とは直接関係がない。そして、位置決め演算を船上で行う場合には、海底局及びGPSの信号を受信した後、観測船が帰港するまでの間で、その実行時期を自由に決めることができるにもかかわらず、位置決め演算を「受信次第直ちに」実行しなければならないような特段の事情や、本件発明の実施の形態において、当該演算が「受信次第直ちに」実行されていることをうかがわせる事情等は、本件当初明細書に何ら記載されていない。

 また、特許出願当初の本願発明では、構成eに「前記船上局受信部において、…前記海底局の位置を決める演算を行うデータ処理装置と、」と、位置決め演算を船上で行うことが特定されていたのであるから、本件補正によって追加された「受信次第直ちに」との文言を、位置決め演算を船上で行うことと解すると、当初明確な文言によって特定されていた事項を、本来の意味と異なる意味を有する文言により特定し直すことになり、明らかに不自然である。

 したがって、「受信次第直ちに」との文言を、船上で位置決め演算を行う場合を指すと解することはできない。

 (エ) よって、本件特許出願当初の明細書に、位置決め演算時期構成が記載されていると認めることはできない。

 ウ 以上検討したところによれば、前記当初明細書等に位置決め演算時期構成が記載されていると認めることができないから、構成Eに位置決め演算を「受信次第直ちに」行うとの限定を追加する本件補正は、前記当初明細書に記載された事項との関係において、新たな技術的事項を導入するものというべきである。

 したがって、この点についての審決の判断には誤りがあり、その誤りは結論に影響を及ぼすものである。



 [コメント]
@本事例では、特許出願人が請求項1に対して追加した2つの補正事項に関して正反対の判断が示されました。

・返信信号を「一斉に」受信する→新規事項ではない。

・海底局の位置を決めるための演算を(返信信号の)受信次第直ちに行う→新規事項である。

A判断の分かれ目は、補正により追加した用語の技術的意味合いに関して、特許出願時の明細書・図面から筋道の通った解釈ができるかどうかであると思われます。

 「一斉に」に関しては、裁判所は、「船上局と各海底局との位置関係次第では船上局での受信が同時にされる程度の時間差の範囲内で」という意味と判断しました。

 「位置関係次第」といっても、どの程度の範囲で位置関係を想定しているのかはっきりせず、仮に実際の特許出願の手続の中で「一斉に」に代えて「船上局と各海底局との位置関係次第では…程度の時間差の範囲内で」という要件を追加する補正をしたら、発明が不明確である旨の拒絶理由を受ける可能性もあると考えます。

 いろいろと問題はありそうですが、それでも特許出願時の明細書・図面からは、そうした趣旨の技術的な意義が読み取れます。

 これに対して、「受領後直ちに」を「演算を船上で行う」と解釈するのは、演算処理の時期の問題が演算処理の場所の問題にすり替わっています。特許出願時の明細書・図面にもそうしたことは開示されていないため、技術的意義に関して原文にないストーリーを作ったと言われても仕方ありません。

 すなわち、新規事項の追加に該当することになります。



 [特記事項]
 
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