内容 |
①仮処分の意義
特許出願に対して独占排他権である特許権が付与されると、権原(先使用権など)のない他人による特許発明の業としての実施は特許権の侵害となり、その侵害行為に対して差止請求権・損害賠償請求権などの救済が与えられます。
裁判所においてこれらの請求が認容されるためには、一般に長期間の審理を経なければなりませんが、それだと、特許権者の過剰の損害となる可能性があります。
特に差止請求権に関しては、特許権の存続期間は原則として特許出願の日から20年を超えないと定められており、有限ですので、長い裁判が終わって侵害品の製造などを差し止めようとした段階では、存続期間が終了しており、意味がなかったということも想定されます。
そこで、裁判の決着を待たずに、侵害に対する救済を受けられる措置として、仮処分の制度が認められています(→仮処分とは)。
仮処分の申し立ては、即効性のある救済手段として有意義ですが、その反面、仮処分の命令が執行された後で当該仮処分が取り消された場合には、逆に、申し立てた側(債権者)が仮処分の執行により相手方(債務者)に生じた損害を賠償する義務を負う場合があります(民法709条)。本来、被保全権利がないにもかかわらず、故意又は過失により、本来仮処分の申し立てが行われたような場合です。
特に特許権は、無効理由(特許出願前に公知となった発明と同一である、或いは、単独の公知発明又は公知発明の組み合わせから容易に発明できたことなど)により最初からなかったものなる可能性がある不安定な権利ですので、仮処分の申立人の過失が問題となるケースがあります。そうした事例を紹介します。
②仮処分の事例の内容
[事件の表示]平成15年(ワ)第6256号
[事件の種類]損害賠償請求事件(棄却)
[発明の名称]採光窓付き鋼製ドアの製造方法
[事件の経緯]
(a)被告は、「採光窓付き鋼製ドアの製造方法」と称する発明の特許出願に対して付与された特許権(第1861289号)の特許権者である。
(b)被告は、平成9年10月28日、本件特許権に基づき、本件原告を被告とする特許権侵害差止等請求訴訟(以下「前訴」という。)を提起するとともに、本件原告を債務者として、その採光窓付き鋼製ドアの製造販売の差止等を求める仮処分を申し立てた。
(c)本件仮処分事件につき、平成10年3月26日、債権者である本件被告の申立てを認める命令が発令された(以下「本件仮処分命令」という。)。
(d)本件被告(債権者)は、執行官に対し、本件仮処分命令の執行を申し立て、担当執行官は、平成10年4月2日、同事件債務者である本件原告の本社工場内にあった採光窓付き鋼製ドア2枚につき、債務者の占有を解いて執行官の保管とする執行を行った。
(e)ところが、本件特許権(請求項1)に対する無効審判請求事件において、平成13年11月9日、本件特許出願前に日本国内において頒布された刊行物1及び刊行物2に記載された発明に基づき当業者が容易に発明をすることができた(以下「本件無効理由」という。)として、本件発明についての特許を無効とする審決が出された。
(f)本件仮処分事件の債務者である本件原告は、前記無効審決を根拠として、本件仮処分事件につき事情変更による保全取消しを申し立てたところ、平成14年2月1日、本件仮処分命令は取り消された。
(g)前記保全取消しの申し立てに対する保全抗告事件においても、平成14年7月31日、その保全抗告を棄却する旨の決定がされた。
(h)本件被告は、無効審決に対する審決取消請求訴訟を提起したが、平成15年3月26日、本件無効理由の存在を根拠として、同事件原告(本件被告)の請求を棄却する判決が出され、同判決は確定した。
(i)上記の前訴も、弁論終結後の平成15年7月28日の和解期日において、原告の請求放棄により終了した。
[原告の主張]
・無効審決の確定により本件特許権は遡及的に無効となったのであるから、本件仮処分命令に伴う本件特許権行使は違法であり、特段の事情のない限り、被告には過失があったものと推定すべきである(最高裁昭和43年12月24日第三小法廷判決)。
・一般に、無効審判請求がされた特許が最終的に無効と判断される割合は5割前後と相当高いから、特許権が特許庁審査官の審査を経て認められた権利であるからといって、他の所有権等の私法上の権利と比べて安定した権利であるとはいえない。したがって、特許庁の審査を経ているからといって、当然に無過失であるということはできない。
・上記無効審決及びこれに対する審決取消訴訟判決が認定した本件無効理由は、本件特許出願前に日本国内において頒布された刊行物1及び2に記載された発明に基づき進歩性が否定されたものである。歴史も古く、プレス技術の分野で多彩な技術を有する被告にとって、調査困難な無効理由であったとはいえないし、本件発明に特許性があると信ずる特段の事由もないから、被告はこれらの刊行物を知っていたか、仮に知らなくとも知り得べきであったという点で過失があったというべきである。
[被告の主張]
・一般に、発明が進歩性を有するか否かの判断は決して容易ではないところ、本件発明は、特許庁審査官が先行技術や周知技術を検討した上で、いったんは特許査定をしたものであるから、刊行物1及び2により進歩性が否定されるか否かについて見解が相違することは当然であった。
・被告は、本件仮処分事件当時、上記刊行物の存在を知らなかった。現に、被告は、本件特許が進歩性を有することを信じて、上記無効審判請求事件における平成13年5月10日付け審判答弁書(乙20)や上記審決取消訴訟における平成14年2月14日付け準備書面(乙21)で、本件特許に進歩性が存することを具体的に主張していた。
[裁判所の判断]
仮処分命令が被保全権利の不存在を理由に取り消された場合、同命令を得てこれを執行したことに故意又は過失があったときは、債権者は民法709条により債務者がその執行によって受けた損害を賠償すべき義務があり、一般に、仮処分命令が異議もしくは上訴手続において取り消され、あるいは本案訴訟において原告敗訴の判決が言い渡され、その判決が確定した場合には、他に特段の事情のないかぎり、当該債権者には過失があったものと推認すべきではあるが、当該債権者において、その挙に出るについて相当な事由があった場合には、上記取消しの一事をもって同人に当然過失があったということはできないというべきである(最高裁昭和43年12月24日第三小法廷判決・民集22巻13号3428頁参照)。
この場合、上記過失の推定を覆す事由の存否を判断するに当たっては、当該特許発明の内容、特許出願の経過、無効理由の内容、無効判断の根拠資料の内容、収集の難易、仮処分発令時までの相手方の対応その他の事情を総合考慮して検討すべきである。
審決は、刊行物1及び2から本件発明に進歩性がないと判断し、東京高等裁判所の判決もこの判断を是認したものである。しかし、一般に、特許の有効性に関する判断は、当業者であれば常に正しく判断し得るものとは限らないし、特に本件のような進歩性(特許法29条2項)の有無に関する判断にあっては、要求される先行技術の調査範囲としても、当該技術分野に限定してよいとは限らず、他の技術分野における技術の転用可能性も視野に入れる必要が存するほか、どのような刊行物を探索収集すればよいか、いかなる組み合わせを検討すればよいか、いかに当該発明の容易推考性を基礎付けられるか等の個別的問題を想定すれば、当業者はもとより、特許権者自身といえども、相当の困難を伴う場合もあり得ると考えられる。さらに、上記審決及び取消訴訟判決の内容を検討しても、引用例とされた刊行物1及び2に基づいて当業者が容易に発明することができたという判断過程には、相違点についての判断等、微妙な法的評価が含まれていると解され、刊行物1及び2の存在を知り得たことを前提としても、当業者であればそのような判断をすることが当然に期待できるものとは直ちに言い難いと考えられる。
このような本件仮処分事件及び前訴の審理経過に照らすと、その根拠とする基礎資料の探索収集、無効理由の具体的構成、容易推考性の検討等の点で、本件無効理由に関する主張立証は、本件原告側にとっては相当の困難を伴うものであったというべきであり、これを本件被告側からみれば、本件特許が有効であると信ずるにつき相応の根拠があったというべきである。
以上の点を総合考慮すれば、本件仮処分事件において、被告が本件特許権を行使するについては相当の事由があり、他に被告の過失を基礎付けるに足りる証拠はないというべきである。したがって、主位的請求である不法行為に基づく損害賠償請求は、その余の点について判断するまでもなく、理由がない。
|