[事件の概要] |
@ジクロフェナクナトリウムは、鎮痛・抗炎症・抗リチウム作用を有する非ステロイド系薬剤として、臨床において広く使用されるものの、吸収排出が早いために血中半減期が短い(1.3時間)という特性から、1日に何度も服用しなければならず、有効血中濃度をできるだけ長く使用として一回の服用量を増やすと副作用を生ずるという問題点がありました。 Aそこで原告は、本来速効性のジクロフェナクナトリウムを腸溶性皮膜で覆って遅効性ジクロフェナルナトリウムを得るという着想を得て、速効性ジクロフェナルナトリウムと遅効性ジクロフェナルナトリウムからなる徐放性ジクロフェナルナトリウム製剤の発明について特許出願をしました。 Bところが、この特許出願の審査において、遅効性製剤(ジクロフェナックなど)と、持続性製剤として速効性製剤及び遅効性製剤を配合する方法とがそれぞれ引用例として示されました。 Cそこで特許出願人(原告)は、腸溶性皮膜として三種類の物質(HPという)に限定して当該特許出願について特許査定を受け、特許権を取得しました。 D被告は、速効性ジクロフェナクナトリウムと遅効性ジクロフェナルナトリウムの組み合わせである徐放性材料であって、腸溶性皮膜を別の物質(ASという)を選択したものを販売しました。 E原告は、被告を特許権侵害で訴えました F裁判では、HPをASに置き換えた被告製品に関して均等侵害が成立するかどうかが問題となりました。 [特許発明/特許出願に係る発明の内容] {発明の目的} 「有効血中濃度をできるだけ長く持続させようとすると1回の服用量を多くしなければならず、その結果、血中濃度が極度に高くなり副作用及び毒性の増大等が起こりやすくなり好ましくない。そこで有効血中濃度をできるだけ長くその作用を持続させることが今日強く望まれている。」 {発明の構成} @特許請求の範囲の記載は次の通りです。 「(A)速効性ジクロフエナクナトリウム、及び(B)ジクロフエナクナトリウムに溶解pHが6〜7の範囲にあるメタアクリル酸―メチルメタアクリレートコポリマー、溶解pHが5.5であるメタアクリル酸―エチルアクリレートコポリマー又は溶解pHが5〜5.5の範囲にあるヒドロキシプロピルメチルセルロースフタレートの腸溶性皮膜を施した遅効性ジクロフエナクナトリウムを、(A):(B)が重量比で4:6〜3:7になるように組合せたことを特徴とする徐放性ジクロフエナクナトリウム製剤。」 A裁判所では、前記特許請求の範囲の記載内容を次のように分説しました。 A (A)速効性ジクロフェナクナトリウム、及び B (B)ジクロフェナクナトリウムに溶解pHが六ないし七の範囲にあるメタアクリル酸―メチルメタアクリレートコポリマー、溶解pHが5.5であるメタアクリル酸―エチルアクリレートコポリマー又は溶解pHが五ないし5.5の範囲にあるヒドロキシプロピルメチルセルロースフタレート(以下「HP」という。)の腸溶性皮膜を施した遅効性ジクロフェナクナトリウムを、 C (A)対(B)が重量比で四対六ないし三対七になるように組み合わせたことを特徴とする D 徐放性ジクロフェナクナトリウム製剤。 [係争物] a (a)速効性ジクロフェナクナトリウム、及び b (b)ジクロフェナクナトリウムに溶解pHが六ないし七の範囲にあるヒドロキシプロピルメチルセルロースアセテートサクシネート(以下「AS」という。)と非水溶性のエチルセルロース(以下「EC」という。)を重量比一対一で用いた腸溶性皮膜を施した遅効性ジクロフェナクナトリウムを、 c (a)と(b)の重量比が三対七になるように組み合わせた d 徐放性ジクロフェナクナトリウム製剤。 [特許出願の経緯] 判決文の中で特許出願の経緯として認定された部分を引用します。 “3(二) (1) 原告は、昭和五九年八月一〇日、本件特許発明について特許出願をしたが、右出願当時、 @腸溶性物質として、CAS、メタアクリル酸―メチルメタアクリレートコポリマー、メタアクリル酸―エチルアクリレートコポリマー、HP等が存在すること、 A速効性の薬剤と遅効性の薬剤を混合して徐放性製剤を得ること、 Bジクロフェナクナトリウムに非水溶性皮膜を施して遅効性ジクロフェナクナトリウムを得ることは、いずれも公知であった。 (2) 当初明細書の特許請求の範囲の記載は、次のとおりであった。 「1 速効性ジクロフエナクナトリウム及び遅効性ジクロフエナクナトリウムよりなることを特徴とする徐放性ジクロフエナクナトリウム製剤。 2 遅効性ジクロフエナクナトリウムが、ジクロフエナクナトリウムに腸溶性物質又は非水溶性物質の皮膜を施したものである特許請求の範囲第1項記載の徐放性ジクロフエナクナトリウム製剤。 3 遅効性ジクロフエナクナトリウムが、ジクロフエナクナトリウムを腸溶性物質又は非水溶性物質と練合したものである特許請求の範囲第1項記載の徐放性ジクロフエナクナトリウム製剤。 4 腸溶性物質が、溶解pHが6〜7の範囲にあるメタアクリル酸―メチルメタアクリレートコポリマー、溶解pHが5.5であるメタアクリル酸―エチルアクリレートコポリマー又は溶解pHが5〜5.5の範囲にあるヒドロキシプロピルメチルセルロースフタレートである特許請求の範囲第2項又は第3項記載の徐放性ジクロフエナクナトリウム製剤。 5 非水溶性物質がエチルセルロースである特許請求の範囲第2項又は第3項記載の徐放性ジクロフエナクナトリウム製剤。 6 速効性ジクロフエナクナトリウムと遅効性ジクロフエナクナトリウムの配合量が6:4〜2:8である特許請求の範囲第1〜5項の何れか1項記載の徐放性ジクロフエナクナトリウム製剤。」 (3) 特許庁は、右特許出願について、その出願前国内において頒布された左記@ないしFの公開特許公報を引用例として掲げ、引用例@及びAにはジクロフェナック等の遅効性製剤が、引用例BないしFには持続性製剤として速効性製剤と遅効性製剤とを配合する方法が、それぞれ開示されており、これらに記載された発明に基づいて、引用例@及びAに開示されている遅効性製剤に従来の速効性製剤を配合して持続性製剤にしてみる程度のことは、その出願前にその発明に属する技術分野における通常の知識を有する者が容易に想到し得たものと認められるから、特許法二九条二項の規定により特許を受けることができないとして、原告に対し、昭和六三年一二月二一日付けで拒絶理由を通知した。 記 @ 特開昭五七―一〇九七一五号 A 特開昭五七―一〇九七一六号 B 特開昭五二―一三九七一三号 C 特開昭五四―一二九一一五号 D 特開昭五八―二六八一六号 E 特開昭五八―八三六一三号 F 特開昭五八―一〇八二八九号 (4) 原告は、右拒絶理由通知を受けて、特許庁に対し、平成元年四月二〇日付け手続補正書により、明細書の特許請求の範囲及び発明の詳細な説明の記載を、本判決末尾添付の本件特許権の出願公告公報(甲第二号証。以下「本件公報」という。)記載のとおりに補正するとともに、同日付け意見書を提出した。 右補正後における本件明細書の発明の詳細な説明には、「以上のような腸溶性物質については、本発明者らが種々の物質についても検討を重ね、その結果メタアクリル酸―メチルメタアクリレートコポリマー(商品名オイドラギットL・S)、メタアクリル酸―エチルアクリレートコポリマー(商品名オイドラギットL30D)、ヒドロキシプロピルメチルセルロースフタレート(商品名HP)がすぐれた徐放性を示すことを見出したものである。」(本件公報四欄一六ないし二三行)と記載されている。 また、右意見書には、 「斯かる実状において、本発明者は、投与直後の血中濃度の急激な立上りを抑え、しかも一定の血中濃度を長時間持続させることのできる製剤を開発すべく種々研究を行った。その結果、従来から放出遅延効果を有するとされている多くの皮膜物質の中で、上記の特定の腸溶性皮膜がすぐれた持続効果を示し、この腸溶性皮膜を施した遅効性ジクロフェナクナトリウムと速効性ジクロフェナクナトリウムを特定の割合で組合せると、本願の第1〜3図に示すように、約10時間にわたって有効量の血中濃度を与えることを見出し、本願発明を完成したものであります。」、 「また、同じ腸溶性皮膜で被覆されていても、薬効成分の種類によって溶出パターンが異なることは周知であり、更にまた、溶出されてもこれが体内に吸収されるのに要する時間、これが与える血中濃度及びその持続時間は薬効成分によって全く相違するものであります。従って、薬効成分の血中濃度を長時間一定に保持して持続化を図るためには、各薬効成分の種類によって、条件にあった皮膜を選定して遅効性製剤を調製し、かつこれを速効性製剤の特定量と組合せるという多大の研究を必要とするものであり、決して貴官ご指摘のような簡単なものではありません。」 と記載されている。 (5) 本件特許発明は、平成元年一二月四日に特許出願公告され、平成二年四月二七日に特許査定されて、同年七月二五日に登録された。” [争点] @被告医薬品が本件特許の技術的範囲に属するものか否かを検討するに当たり、被告医薬品の遅効性ジクロフェナクナトリウムの腸溶性皮膜中のECの存在を考慮する必要がないかどうか。 A被告医薬品の遅効性ジクロフェナクナトリウムの腸溶性皮膜に用いられているASは、本件特許発明の腸溶性皮膜に用いられているHPと実質的同一物であるかどうか。 B本件特許発明における腸溶性物質HPに代えて腸溶性皮膜にASを用いることは、本件発明と均等かどうか。 [当事者の主張] 1 争点1について (原告の主張) 本件特許発明は、要件Bにおいて、@溶解pHが六ないし七の範囲にあるメタアクリル酸―メチルメタアクリレートコポリマー、A溶解pHが5.5であるメタアクリル酸―エチルアクリレートコポリマー又はB溶解pHが五ないし5.5の範囲にあるHPを腸溶性皮膜として用いているのに対し、被告医薬品は、構成bにおいて、重量比一対一の溶解pHが六ないし七の範囲にあるASとECとを腸溶性皮膜として用いている点が相違する。しかし、被告医薬品においては、ASが腸溶性皮膜としての作用を果たしており、皮膜成分としてECが加えられてASの溶解性が制御されることがあったとしても、ASはその性質を変ずることなく腸溶性物質としての性能を発揮しているから、ECは単なる付加であって、被告医薬品が本件特許の技術的範囲に属するものか否かを検討するに当たり、ECの存在を特に考慮する必要はなく、ECが対比において意味を持つものではない。従って、腸溶性皮膜剤であるHPとASが実質的同一物であるか、又は腸溶性皮膜としてHPに代えてASを用いることがHPを用いることと均等なものであれば、被告医薬品は本件特許発明の技術的範囲に属することになる。 (被告らの主張) ASとECとからなる皮膜は、腸溶性皮膜としての作用・効果がAS単独からなる皮膜とは異なり、被告医薬品の徐放化はASのみによって与えられているものではないから、ECは単なる添加物ではなく、被告医薬品が本件特許発明の技術的範囲に属するか否かを判断するに当たっては、HPからなる腸溶性皮膜とASとECとからなる腸溶性皮膜とを対比検討すべきであって、被告医薬品の遅効性ジクロフェナクナトリウムを形成する皮膜からASを抜き出してこれとHPとを対比しようとする原告の主張は、失当である。 2 争点2について (原告の主張) HPとASは、ヒドロキシプロピルメチルセルロースのエステルである点において同一の構造を有しており、エステルを構成する酸が異なるにすぎず、また、ASが腸溶性コーティング基剤として用い得ること及びその機能がHPと同様であることは、本件特許発明出願当時、当業者にとって自明であった。 本件特許発明は、ある種の腸溶性皮膜をジクロフェナクナトリウムに施して遅効性ジクロフェナクナトリウムを得た点に技術的特徴を有し、本件明細書の特許請求の範囲に記載された各腸溶性皮膜の溶解pH値に臨界的意味はないから、被告医薬品のASと本件特許発明のHPとの溶解pHの違いは、問題にならない。 従って、被告医薬品において腸溶性皮膜として用いられる溶解pHが六ないし七の範囲にあるASは、本件明細書の特許請求の範囲記載の溶解pHが五ないし5.5の範囲にあるHPと目的、機能において同等であって、これと実質的に同一の物質である。 よって、被告医薬品は、本件特許発明の技術的範囲に属する。 (被告らの主張) HPとASは、ヒドロキシプロポキシル基を有するという点で共通の構造を有するものの、置換基(R)の種類が異なっている。すなわち、HPはそのエステルを構成するフタル酸がベンゼン骨格を有する芳香族系の酸であるのに対し、ASはそのエステルを構成する酸が酢酸及びコハク酸というベンゼン環を有さない脂肪族系の酸である点で相違し、酢酸がモノカルボン酸であり、フタル酸がジカルボン酸である点でも相違する。また、ASはそのエステル化に用いる酸が二種類であるが、HPはフタル酸一種類である。従って、ASとHPとはエステルを構成する酸が異なり、性状や作用(ジクロフェナクナトリウムに対する溶出特性や持効化効果)も相違することになり、当業者にとって両者はコーティング剤としての作用が全く別のものと理解されるものであるから、両者が実質的同一物であるとはいえない。 3 争点3について (原告の主張) (一) 最高裁第三小法廷平成一〇年二月二四日判決(無限摺動用ボールスプライン軸受事件)は、均等が成立する要件について、次のように判示する。 「特許請求の範囲に記載された構成中に対象製品等と異なる部分が存する場合であっても、(1) 右部分が特許発明の本質的部分ではなく、(2) 右部分を対象製品等におけるものと置き換えても、特許発明の目的を達することができ、同一の作用効果を奏するものであって、(3) 右のように置き換えることに、当該発明の属する技術の分野における通常の知識を有する者(以下「当業者」という。)が、対象製品等の製造等の時点において容易に想到することができたものであり、(4) 対象製品等が、特許発明の特許出願時における公知技術と同一又は当業者がこれから右出願時に容易に推考できたものではなく、かつ、(5) 対象製品等が特許発明の特許出願手続において特許請求の範囲から意識的に除外されたものに当たるなどの特段の事情もないときは、右対象製品等は、特許請求の範囲に記載された構成と均等なものとして、特許発明の技術的範囲に属するものと解するのが相当である。」 本件特許発明におけるHPに代えてASを用いることは、以下に詳述するとおり、右の均等の成立要件をすべて充足しており、本件特許発明の技術的範囲に属する。 (二) 本質的部分について (1) 前掲最高裁判決においては、特許発明の本質的部分がいかなるものであるかについて、具体的な説示、判断がされていないが、そもそも右判決が産業の発達への寄与という特許法の目的、社会正義の実現、衡平の理念を根拠に、第三者が特許請求の範囲に記載された構成からこれと実質的に同一なものとして容易に想到することができる技術は均等として特許発明の技術的範囲に属すると結論していることからすれば、本質的部分が異なる場合とは、特許法の目的、社会正義及び衡平の理念に照らして均等として保護を及ぼすのが適当でないと認められる場合をいうものと理解すべきである。 本質的部分か否かの判断については、特許請求の範囲の構成要件ごとに分断して判断すべきではない。なぜなら、例えば新規化合物の物質発明やその用途発明の場合、構成要件の数は極めて少なく、いずれも本質的部分といえるが、これらについては均等が成立する余地は全くなくなるし、また、いわゆるパイオニア発明のような場合には、すべての構成要件が欠くべからざるものであって、本質的部分に当たるから、パイオニア発明であればあるほど均等が認められる範囲が狭くなるという矛盾を来すことになるからである。 (2) 本件特許発明の技術思想の根本は、ジクロフェナクナトリウムとの組合せにおいて、有効な徐放性を発揮する皮膜を見出した点にある。本件明細書の特許請求の範囲においては、具体的に@メタアクリル酸―メチルメタアクリレートコポリマー、Aメタアクリル酸―エチルアクリレートコポリマー及びBHPの三つの腸溶性物質が取り上げられているが、特に、セルロース系の腸溶性皮膜を用いることについては、従来から広く皮膜剤として用いられてきたCAPではなくHPを用いた点に技術的特徴を有する。そして、HPを皮膜剤として用いた理由は、HPがヒドロキシプロピル基を有し、安定性を有していることから、ジクロフェナクナトリウムとの組合せにおいて十分な腸溶性を発揮するからである。そうすると、本件特許発明のセルロース系の腸溶性皮膜を用いる発明においては、ヒドロキシプロピル基を有しているために構造的に安定している皮膜を用いたという点にその技術的特徴があるというべきである。 HPと同じくヒドロキシプロピル基を有するセルロース系の腸溶性皮膜であるASを用いた場合、HPとASの構成上の相違点は、本件特許発明の本質的部分ではない。 (三) 置換可能性について 被告医薬品は、本件特許発明の実施品の一つであり先発品である「ナボールSRカプセル」及び「ボルタレンSRカプセル」の後発品として製造承認を受けたものであるから、放出特性や有効血中濃度の維持という効果は本件特許発明の構成を採用した場合と同一であって、ASへの置換によって本件特許発明とは異なる特に顕著な効果がもたらされることもない。従って、腸溶性皮膜としてHPに代えてASを用いても、本件特許発明の目的を達することができ、同一の作用効果を奏すること(置換可能性があること)は明らかである。 (四) 置換容易性について (1) CAPとHPの本質的な違いは、HPの場合は、セルロースにヒドロキシプロピル基とメチル基がエーテル結合し、フタロイル基の大部分がヒドロキシプロピル鎖の「―OH」にエステル結合しているのに対し、CAPの場合は、ヒドロキシプロピル基を持たず、アセチル基とフタロイル基が直接セルロースとエステル結合している点にある。このような構造的な違いから、ヒドロキシプロピル基を有しないセルロース系のエステル誘導体は安定性に乏しく、主剤に対し悪影響を及ぼす場合のあることが古くから知られており、かかる難点を克服するために、ヒドロキシプロピル基を有するセルロース誘導体を腸溶性皮膜として用いる試みが行われてきた。 (2) 本件特許発明出願時には、@セルロース系の腸溶性皮膜剤の腸溶性が分子中のカルボキシル基が解離することによりもたらされるものであること、Aカルボキシル基を含むフタル酸あるいはコハク酸とセルロースの基本骨格とのエステル結合が特定の条件下で不安定となり、加水分解しやすいこと、BCAPをある種の薬剤をコーティング剤として用いた場合、腸溶効果が失われることがあること、Cヒドロキシプロピル基とのエステル結合を介してセルロース基本骨格と結合したフタル酸あるいはコハク酸の化合物(HPやAS)のエステル結合が、しからざる化合物(CAP)のエステル結合より安定していること、DASについても、他の有効成分との組合せにおいてHPと同様の腸溶性を示すことは、いずれも公知であった。しかし、どの有効成分と組み合わせた場合にエステルの不安定さが原因となって腸溶性が悪化し、有効成分の溶出に悪影響を及ぼすかについては知られておらず、CAPも極めてありふれた腸溶性物質として広く用いられていた。 本件特許発明の発明者は、このような技術状況の下、HP及びCAPが同じセルロース系のエステル誘導体であり、いずれも腸溶性の皮膜剤として広く用いられていたにもかかわらず、これらをジクロフェナクナトリウムとの組合せにおいて生体内に投与した場合、CAPは良好な腸溶性を維持できないのに対し、HPは良好な腸溶性を維持でき、遅効性ジクロフェナクナトリウムの皮膜成分として適切であることを発見し、それを遅効性ジクロフェナクナトリウムの皮膜剤として用いた徐放性製剤を発明したものであり、この点に本件特許発明の本質的な進歩性があったものである。 (3) CAPもHPも、フタル酸を置換基として有しており、このフタル酸中のカルボキシル基によって腸溶性がもたらされる点において、両者は全く同様であるから、CAPとHPとでその作用効果に顕著な違いが生じているのは、CAPがヒドロキシプロピル基を持たないのに対して、HPがそれを有している点によるものとしか考えられない。このことは、本件特許発明出願時の知見に符合するものであって、当業者であれば、HPとCAPとの作用効果の顕著な違いがヒドロキシプロピル基に由来するものであり、ヒドロキシプロピル基を有するがゆえにHPが良好な徐放効果を発揮することに思い至る。そして、いったんこのことに思い至れば、当業者にとって、HPと同様にヒドロキシプロピル基を有し、既に他の有効成分との組合せにおいてHPと同様の腸溶性を示すことが報告されているASについても、ジクロフェナクナトリウムとの組合せにおいて良好な腸溶性が発揮されることに思い至るのは極めて容易である。 (4) 以上のような本件特許発明出願時の技術水準に加え、その後に公知となった文献(甲第一九号証ないし第二一号証)の存在等に鑑みれば、HPをジクロフェナクナトリウムの皮膜として使用し得る旨の本件明細書の記載を見た当業者が、腸溶性皮膜としてHPに代えてASを用いることに、対象製品の製造の時点において容易に想到することができたこと(侵害時における置換容易性があること)は明らかである。 (五) 均等の成立を妨げる事情について (1) 特許請求の範囲の記載の限定によりそれを超える権利主張が許されなくなるのは、新規性、進歩性を確保するための限定の場合に限られるのであって、特許法三六条の要件に適合させるための限定の場合には、均等の成立は妨げられるものではない。 (2) 原告は、本件特許発明の出願当初の明細書(以下「当初明細書」という。)において、腸溶性物質又は非水溶性物質によってジクロフェナクナトリウムに遅効化を持たせたという点及びそれを速効性ジクロフェナクナトリウムと組み合わせたという点において本件特許発明は新規性、進歩性を有すると主張していた。しかし、「オイドラギッドED」及び「エチルセルロース」をジクロフェナクナトリウムに組み合わせた遅効性ジクロフェナクナトリウムが既に公知であり、さらに、速効性製剤と遅効性製剤とを組み合わせて持続性効果を得ることも公知であったから、速効性ジクロフェナクナトリウムに遅効性ジクロフェナクナトリウムを組み合わせることは容易に想到し得たとして、昭和六三年一二月二一日付けで拒絶理由が通知された。そこで、原告は、「オイドラギッドED」及び「エチルセルロース」は非水溶性物質であって、腸溶性物質を用いた遅効性ジクロフェナクナトリウムが公知でないことを平成元年四月二〇日付け意見書で主張するとともに、審査官の拒絶理由を克服するために、非水溶性物質を用いた製剤について権利主張をすることを断念し、腸溶性物質を用いる製剤についてのみ権利主張をすることにした。そして、右拒絶理由を克服するためには当初明細書の特許請求の範囲から非水溶性物質を用いたジクロフェナクナトリウムに関する記載のみを削除することで足りたのであるが、比較例として用いられたCAPやセラックが腸溶性物質であるにもかかわらず望ましい結果を得られなかったことから、特許法三六条の要件に適合するように、実施例で開示した組合せのみのクレームとするよう明細書を補正した。 従って、右補正において、特許請求の範囲の記載を腸溶性皮膜のうち実施例に記載した皮膜のみの組合せに減縮しているが、これは新規性、進歩性の欠如を克服するために記載を限定したものではない。 (3) 原告は、前記意見書の中で、「同じ腸溶性皮膜で被覆されていても、薬効成分の種類によって溶出パターンが異なることは周知であり、更にまた、溶出されてもこれが体内に吸収されるのに要する時間、これが与える血中濃度及びその持続時間は薬効成分によって全く相違するものであります。」と述べているが、これは開示した腸溶性物質と他の薬効成分とを組み合わせても良好な結果が得られるかどうかは分からないということを述べたに過ぎず、本件明細書の特許請求の範囲記載の特定の腸溶性皮膜以外の腸溶性皮膜の場合、ジクロフェナクナトリウムとの組合せにおいて望ましい結果が得られないことまでを述べたものではない。 (4) 以上によれば、原告が特許出願の過程において特許請求の範囲を補正したことをもって、腸溶性皮膜としてHPに代えてASを用いることについての均等の成立が妨げられるものではなく、他に均等の成立を妨げるような事情は一切存在しない。 (被告らの主張) (一) 被告医薬品は、以下に詳述するとおり、均等の成立要件を充足しておらず、本件特許発明の技術的範囲に属しない。 (二) 本質的部分について 均等の成立要件における本質的部分とは、特許請求の範囲に記載された特許発明の構成のうち当該特許発明における特許性を基礎付ける部分、すなわち、右部分が他の構成に置き換えられるならば、全体として当該特許発明の技術的思想とは別個のものと評価されるような部分を意味すると解すべきである。 原告は、当初明細書の特許請求の範囲に、遅効性ジクロフェナクナトリウムに腸溶性物質一般を用いる旨を記載していた。しかし、本件特許発明の審査過程において、単に速効性ジクロフェナクナトリウムと遅効性ジクロフェナクナトリウムとを組み合わせて徐放性ジクロフェナクナトリウム製剤を得るという技術的思想の特許性、遅効性ジクロフェナクナトリウムとして単にジクロフェナクナトリウムに腸溶性物質又は非水溶性物質被膜を施したものを用いるという技術的思想の特許性がいずれも否定された。そこで、原告は、腸溶性物質一般について特許を得ることを自ら放棄し、従来から放出遅延効果を有するとされている多くの皮膜物質の中から、@メタアクリル酸―メチルメタアクリレートコポリマー、Aメタアクリル酸―エチルアクリレートコポリマー、BHPの三物質が、同じ腸溶性物質であるCAPやセラックと対比してジクロフェナクナトリウムとの関連ですぐれた血中濃度の持続効果を示すことを見出した旨を主張し、その特許請求の範囲について、当初明細書で示されていた腸溶性物質であるCAPやセラックを除外し、前記の三物質のみを用いる旨の訂正を行い、特許を受けるに至った。 右のような審査経過は、本件特許発明の特徴的部分がジクロフェナクナトリウムの被膜物質として右の三物質を選定した点にあることを示すものにほかならない。 従って、HPを腸溶性皮膜として用いることは、本件特許発明の本質的部分というべきであるから、均等は成立しない。 (三) 置換可能性について 本件特許発明の中核的作用効果は、単にジクロフェナクナトリウムの有効血中濃度を長時間維持するという効果にあるものではなく、仮にHPの腸溶性皮膜とイ号製剤の腸溶性皮膜からASのみを取り出して比較したとしても、HPからなる腸溶性皮膜とASからなる腸溶性皮膜とでは、ジクロフェナクナトリウムに対する溶出特性、遅効化作用が異なるから、ASとHPとがヒドロキシプロポキシル基を有する点で共通していても、置換可能性はない。 (四) 置換容易性について 腸溶性皮膜にASを用いることがHPを用いることと実質的に同じ効果を与えるものではなく、置換可能性がない以上、置換容易性もない。 本件明細書には、特許請求の範囲記載の三物質をジクロフェナクナトリウムの皮膜として用いた場合、CAPやセラックを腸溶性皮膜として用いた場合と比較して良好な徐放効果を示すことは開示されているものの、その作用機序については何ら記載されていない。ましてヒドロキシプロポキシル基を有することによる安定性については、何らの示唆もされていない。従って、本件特許発明の開示に接した当業者は、ジクロフェナクナトリウムの皮膜としてCAPを用いた場合とHPを用いた場合とで徐放効果に差が生じる原因やその作用機序を認識することができないし、その原因がヒドロキシプロポキシル基の有無にあると直ちに判断することもできない。 仮に本件特許発明の開示によって徐放効果の差がヒドロキシプロポキシル基の有無を原因とするものであるとの仮説を立てることが可能であったとしても、ASとHPとはエステルを構成する酸が異なり、性状や作用も相違するから、HPとASの右のような相違点がジクロフェナクナトリウムとの関係においていかなる作用機序を示すかが明らかではない以上、ヒドロキシプロポキシル基を有するASをジクロフェナクナトリウムの皮膜として用いた場合にもHPと同様の徐放効果が生じるということに、当業者が容易に想到することができたと認めることはできない。 また仮に当業者がHPの代替品としてASを使用することを想到したとしても、本件特許発明の出願時において、ASは溶解pHの相違によって種々のタイプ(AS―L、AS―M、AS―Hなど)に分けられ、それらのうちAS―L及びAS―MはHP―55(溶解pHが5.5のもの)及びHP―50(溶解pHが五のもの)と類似の溶出特性を示すことが知られているとともに、被告医薬品で使用されているAS―Hはその溶出特性がHP―55、HP―50とは異なることも知られていたのであるから、各種あるASの中から採用されるのはAS―L又はAS―Mであるはずであって、被告医薬品で用いたタイプのもの(AS―H)が想起されることはない。 従って、本件特許発明の特許出願時はもちろん、本件訴えの提起時においても、置換容易性はあり得ない。 (五) 均等の成立を妨げる事情について 本件特許発明は、長時間効力が持続する徐放性ジクロフェナクナトリウム製剤を得ることを目的するものであるが、その出願当時、速効性製剤と遅効性製剤とを組み合せて徐放性製剤を得ること、腸溶性物質又は非水溶性物質の皮膜を施し遅効性製剤を得ること、腸溶性物質としては種々のものがあることは、いずれも公知であった。そして、前記のとおり、原告は、当初明細書の特許請求の範囲に遅効性ジクロフェナクナトリウムに腸溶性物質一般を用いる旨を記載していたが、本件特許発明の審査過程において、従来から放出遅延効果を有するとされている多くの皮膜物質の中から、前記の三物質が同じ腸溶性物質であるCAPやセラックと対比してジクロフェナクナトリウムとの関連ですぐれた血中濃度の持続効果を示すことを見出した旨を主張し、その特許請求の範囲について、当初明細書で示されていた腸溶性物質であるCAPやセラックを除外し、前記の三物質のみを用いる旨の訂正を行ったものであり、その格別の効果を示す点に進歩性があると判断されて、特許を受けるに至った(仮に本件発明が右のように限定されないものであるとするならば、特許法二九条二項により特許を受けることができなかったものである。)。 本件特許発明が単にわずかでも徐放性を示すような徐放性ジクロフェナクナトリウム製剤を目的とするものではなく、すぐれた徐放性を示す徐放性ジクロフェナクナトリウム製剤を目的とすることは、右の審査経過のほか、本件明細書、平成元年四月二〇日付け意見書の記載によっても明らかである。 従って、本件発明の遅効性ジクロフェナクナトリウムを得るためには、いずれの腸溶性物質であってもよいものではなく、前記の三物質に意識的に限定されているものというべきであり、腸溶性皮膜としてHPに代えて前記の三物質以外のASを用いることについて均等を主張することは許されない。 |
[裁判所の判断] |
一 本件において、原告は、(1)被告医薬品において腸溶性皮膜にECが用いられていることは、被告医薬品が本件特許発明の技術的範囲に属するかどうかを判断するに当たって考慮する必要がなく、(2)ASとHPとは実質的同一物であるか、又は(3)本件特許発明における腸溶性物質HPに代えて腸溶性皮膜にASを用いることは本件発明と均等である、と主張している。 原告の右主張のうち、仮に(1)が認められたとしても、(2)(3)がいずれも認められないときには、原告の本訴請求は理由がないことに帰する。そこで、争点1についての判断はひとまずおき、まず、争点2及び3について判断することとする。 二 争点2について HP及びASの構造式は、別紙「構造式」1及び2記載のとおりであり、HP及びASは、その化学構造が明らかに異なり、別物質であるといわざるを得ない。原告は、溶解pHが六ないし七の範囲にあるASは溶解pHが5ないし5.5の範囲にあるHPと目的、機能において同等であって、これと実質的に同一の物質である旨を主張するが、これは結局、被告医薬品と本件明細書の特許請求の範囲に記載された構成との均等(争点3)をいうものにほかならないところ、原告の均等の主張(争点3)についての当裁判所の判断は、後記のとおりである。原告の右主張が、均等の主張とは別個にASとHPが単に目的、機能において同等であるということのみを理由として実質的に同一物であるとして本件特許権の侵害をいうものであるとすれば、これは均等の要件を備えないものについてまで、明細書の特許請求の範囲の記載を超えて右特許発明の技術的範囲を拡張しようとするものであって、到底採用する余地はない。 三 争点3について 1 特許権侵害訴訟において、特許発明に係る願書に添付した明細書の特許請求の範囲に記載された構成中に相手方が製造等をする製品(以下「対象製品」という。)と異なる部分が存する場合であっても、(1)右部分が特許発明の本質的部分ではなく、(2)右部分を対象製品におけるものと置き換えても、特許発明の目的を達することができ、同一の作用効果を奏するものであって、(3)右のように置き換えることに、当業者が、対象製品の製造等の時点において容易に想到することができたものであり、(4)対象製品が、特許発明の特許出願時における公知技術と同一又は当業者がこれから右出願時に容易に推考できたものではなく、かつ、(5)対象製品が特許発明の特許出願手続において特許請求の範囲から意識的に除外されたものに当たるなどの特段の事情もないときは、右対象製品等は、特許請求の範囲に記載された構成と均等なものとして、特許発明の技術的範囲に属するものと解するのが相当である(最高裁平成六年(オ)第一〇八三号同一〇年二月二四日)。 2 置換可能性について ジクロフェナクナトリウムは、経口投与された場合に吸収排泄が速く、有効血中濃度を長時間持続させることが困難であったところ、本件特許発明は、ジクロフェナクナトリウムにメタアクリル酸―メチルメタアクリレートコポリマー、メタアクリル酸―エチルアクリレートコポリマー又はHPという三種の腸溶性物質による皮膜を施した遅効性ジクロフェナクナトリウムと、該皮膜を施さない速効性ジクロフェナクナトリウムとを、特定の重量比で組み合せることにより、長時間効力の持続するジクロフェナクナトリウム製剤を得るものである。甲第一二号証、乙第一五号証及び弁論の全趣旨によれば、本件特許発明における腸溶性物質HPに代えてASを用いても、一定の徐放性を有する腸溶性皮膜を施した遅効性ジクロフェナクナトリウムを得ることができると認められるから、これを速効性ジクロフェナクナトリウムと組み合せることにより、有効血中濃度を一定時間維持するジクロフェナクナトリウム製剤を得ることが可能なものと認められ、右の限度では同一の作用効果を奏するということが可能であるから、右の限度においてHPとASとの間での置換可能性を肯定することができる。 3 本質的部分について (一) 前記のとおり、均等が成立するためには、特許請求の範囲に記載された構成中の対象製品と異なる部分が特許発明の本質的部分ではないことを要するが、右にいう特許発明の本質的部分とは、特許請求の範囲に記載された特許発明の構成のうちで、当該特許発明特有の課題解決手段を基礎付ける特徴的な部分、言い換えれば、右部分が他の構成に置き換えられるならば、全体として当該特許発明の技術的思想とは別個のものと評価されるような部分をいうものと解するのが相当である。すなわち、特許法が保護しようとする発明の実質的価値は、従来技術では達成し得なかった技術的課題の解決を実現するための、従来技術に見られない特有の技術的思想に基づく解決手段を、具体的な構成をもって社会に開示した点にあるから、明細書の特許請求の範囲に記載された構成のうち、当該特許発明特有の解決手段を基礎付ける技術的思想の中核をなす特徴的部分が特許発明における本質的部分であると理解すべきであり、対象製品がそのような本質的部分において特許発明の構成と異なれば、もはや特許発明の実質的価値は及ばず、特許発明の構成と均等ということはできないと解するのが相当である。 そして、発明が各構成要件の有機的な結合により特定の作用効果を奏するものであることに照らせば、対象製品との相違が特許発明における本質的部分に係るものであるかどうかを判断するに当たっては、単に特許請求の範囲に記載された構成の一部を形式的に取り出すのではなく、特許発明を先行技術と対比して課題の解決手段における特徴的原理を確定した上で、対象製品の備える解決手段が特許発明における解決手段の原理と実質的に同一の原理に属するものか、それともこれとは異なる原理に属するものかという点から、判断すべきものというべきである。 (中略) (三) 本件明細書の特許請求の範囲及び発明の詳細な説明の記載に右(二)(1)認定の本件特許発明出願当時の公知技術を総合すれば、本件特許発明は、(1)ジクロフェナクナトリウムの皮膜物質として、腸溶性物質であるメタアクリル酸―メチルメタアクリレートコポリマー、メタアクリル酸―エチルアクリレートコポリマー及びHPという三種の物質を選定した点、(2)ジクロフェナクナトリウムに腸溶性皮膜を施した徐放部と、該皮膜を施さない速放部を特定重量比率で組み合わせたことにより、ジクロフェナクナトリウムという特定の有効成分に対してすぐれた徐放性を有する製剤を生み出した点において、従来技術にない解決手段を明らかにしたものと認められ、右の点が本件特許発明特有の解決手段を基礎付ける技術的思想の中核をなす特徴的部分、すなわち本質的部分というべきである。そして、この点は、前記(二)認定の本件特許発明の審査経過、なかんずく前掲平成元年四月二〇日付け意見書の記載等によっても、裏付けられるものである。 そうすると、本件特許発明における腸溶性物質HPに代えて腸溶性皮膜にASを用いることは、前記のとおり、(1)従来から放出遅延効果を有するものとして知られていた多数の皮膜物質のなかから、ジクロフェナクナトリウムという特定の有効成分に対してすぐれた徐放性を有する物質として特許請求の範囲記載の三物質を見いだしたという点が本件特許発明特有の解決原理であり、(2)他方、ASはHPとは化学構造が異なる別物質であることに照らせば、本件特許発明と同一の解決原理に属するものということはできない。 従って、本件特許発明におけるHPに代えてASを用いることは、本件特許発明の本質的部分について相違するというべきであるから、均等の成立を認めることはできない。 この点について、原告は、本件特許発明のセルロース系の腸溶性皮膜を用いる発明においては、ヒドロキシプロピル基を有しているために構造的に安定している皮膜を用いたという点に技術的特徴があると主張する。 しかし、本件特許発明の特許請求の範囲に記載されている三種の腸溶性物質のうち、ヒドロキシプロピル基を有しているセルロース系の腸溶性物質はHPのみであり、他の二種の物質、すなわちメタアクリル酸―メチルメタアクリレートコポリマー及びメタアクリル酸―エチルアクリレートコポリマーは、いずれもヒドロキシプロピル基を有していない。原告の主張は、特定の三種の物質を腸溶性皮膜として用いることが択一的に表現されている本件特許発明において、これらのうち一種についてだけの特徴を本件特許発明の技術的特徴であるとするものであって、失当といわざるを得ない。また、本件明細書の記載を見ても、特許請求の範囲記載の三種の腸溶性皮膜をジクロフェナクナトリウムの皮膜として用いた場合には、対照例のCASやセラックを腸溶性皮膜として用いた場合と比較して、良好な徐放効果を示すことは開示されているものの、その作用機序については何ら示されておらず、まして、ヒドロキシプロピル基の存在が徐放効果に何らかの影響を与えることについては何ら示唆されていないのであって、この点に照らしても、原告の右主張を採用することはできない。 4 均等の成立を妨げる事情について また、前記3(二)認定の本件特許発明の出願経過に照らせば、原告は、特許出願手続において、本件特許発明の技術的範囲を、遅効性ジクロフェナクナトリウムの腸溶性皮膜に特許請求の範囲記載の三物質を用いるものに限定した(すなわち、右三物質以外の腸溶性皮膜を用いるものが本件特許発明の技術的範囲に属しないことを承認したか、少なくともそのように解されるような外形的行動をとった。)ものと認められ、原告には、遅効性ジクロフェナクナトリウムを得るための腸溶性皮膜としてHPに代えて前記の三物質以外のASを用いることについて、均等の成立を妨げる特段の事情があるというべきである。従って、この点からも、原告の均等の主張を採用することはできない。 四 以上によれば、その余の点について判断するまでもなく、被告医薬品が本件特許発明の技術的範囲に属するということはできないから、原告の請求はいずれも理由がない。 よって、主文のとおり判決する。 |
[コメント] |
@本事例においては、均等論の第1要件(均等論により置き換えられる発明の部分は発明の本質的部分であってはならない)に関して、本質的部分の意味を明らかにされた点に意義があります。 すなわち、本質的部分とは、“他の構成に置き換えられるならば、全体として当該特許発明の技術的思想とは別個のものと評価されるような部分”を言うのです。 A均等論の第1要件に基づく判断においては、そもそも第2要件から第5要件の判断の対象である事象を発明の“課題解決原理”の観点から評価し直すという手法が取られます。 (a)本事例では、特許出願人が審査において、先行技術を回避するために腸溶性皮膜の素材を三種類に限定したことによる、先行技術に対する本発明の優位性を強調したことを挙げて、当該皮膜の素材を三種に限定したことが本発明の課題解決原理に含まれ、発明の本質的部分であると判断しています。 (b)一見すると、均等論の第5要件(意識的除外等の特別の事情・包袋禁反言の原則など)と検討内容がかぶるようですが、実際には、特許出願時の公知事実から、発明の課題解決原理を再評価したと理解するべきでしょう。 B本事例の判決文では、 ・均等論の第2要件(機能の同一性)→有り ・均等論の第1要件(本質的部分)→無し ・均等論の第5要件→無し。 という条件で判断が行われています。均等論の第3、第4要件は判断されていません。 これは、裁判官の思考の過程を表していると推定されます。 裁判官は、均等論の第2要件を判断する過程で、腸溶性皮膜として特許請求の範囲に記載された物質(HP)と被告が採用した物質(AS)とは、速効性のジクロフェナクナトリウムを覆うことで一定の徐放性が得られるから、機能の同一性があると判断しました。 機能の同一性の判断では、質的な同一性と量的な同一性が問題になりますが、この判決では、前者の基準を採用したものと言えます。 先駆的発明(パイオニア発明)の場合には、質的な同一性で均等の範囲をすることは妥当ですが、本件発明のように特許出願時に類似の技術が存在し、特別の技術的限定(腸溶性皮膜の素材の限定)をすることにより効果の量的な優位性を主張して漸く特許になった場合には、質的な同一性だけで均等の範囲を決定すると、過剰な保護を与えることになる可能性があります。 そこで、発明の本質的部分の問題として、発明課題解決の原理を再評価したのだと考えられます。 Cなお、米国では、パイオニア発明に対する均等論について次の判例があります。 HUGHES AIRCRAFT COMPANY v. The UNITED STATES (717 F.2d 1351 1983.09.20) パイオニア特許は、そうでない特許と比較して、広い均等の範囲が認められる。 D原告は、特許出願の審査において、腸溶性皮膜を3つの物質(HP)に限定したことに関して、 (i)これら3種の物質は、ヒドロキシプロビル基を有し、安定性を有する ※ヒドロキシプロビル基…アルキル(CnH2n+1)基の一種であって、プロピル基(R‐CH2CH2CH3)のうちで水酸基(−OH)を有するものを言う。 (ii)HPを皮膜剤として選択する理由は、HPがヒドロキシプルピル基を有し、安定性を有することからジクロフェナクナトリウムとの組み合わせにおいて十分な腸溶性を発揮するからであり、 (iii)被告製品に用いられたASはヒドロキシプル基を有するから、HPとASとの相違は本質的部分ではない と主張しました。 しかしながら、裁判所は、HPのうちでメタアクリル酸―メチルメタアクリレートコポリマー及びメタアクリル酸―エチルアクリレートコポリマーはヒドロキシプル基を有していないので、原告の主張は事実誤認があるとして、これを退けました。 Eもっとも、HPを皮膜剤として選択する理由(HPがヒドロキシプルピル基を有し、安定性を有することからジクロフェナクナトリウムとの組み合わせにおいて十分な腸溶性を発揮する)に関して、特許出願人は、明細書において、何も説明していません。 原告による均等論の主張が退けられる原因が、特許出願人が発明の作用機序や発明の原理を十分に説明していないことに起因する事例は非常に多いと言えます。 例えば次の事例は物の発明の一部材の形状が半球状である旨だけを説明し、その形状からどうして発明の作用・機能が生ずるのかを省略してしまったために、“半球状”であることが均等論第1要件に言う本質的部分と判断され、均等侵害の主張が退けられたケースです。 →平成10年(ワ)第7865号(フィルムカセット事件) Fなお、新規性や進歩性の問題に関連して、特許出願人が先行技術を回避するために請求項を減縮した部分については、均等論の適用による救済を受けることができないというのが基本ですが、前記先行技術との関係において必要ない範囲まで減縮してしまった場合に、減縮の必要がなかった部分に関しては均等論による救済を認めるという理論を、部分取り取り戻し理論と言います。 →Partial Recapture Rule(部分取り戻し理論)とは |
[特記事項] |
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